9月 6

平成7年3月、橋本敦代議士の議員事務所を訪れた明弘さんは、

対応した秘書・島村氏に議事録の写しを示して、

恵子さんの事件とその後の経緯を説明し、

「先生が国会質問された頃はリ・ウネ(大韓航空機爆破事件犯人、

金賢姫の工作員教育課程における日本人教育係)のことについては

まだはっきりとはしておりませんでした、

しかし今はもう田口八重子さんであると判明しています。

どうかもう一度質問して頂いて、

娘の事についてご協力して頂けないでしょうか?」と懇願した。

島村氏は本人に取り次ぐ事を約束し、明弘さんは神戸への帰路についた。

数日後、橋本代議士本人からハガキが届き、

「私で良かったら協力させてもらう」という趣旨の事が綴られていた。

早速、同代議士の秘書と名乗る兵本達吉氏という人物から連絡が入った。

その後、兵本氏は熱心に有本夫妻からの聴き取り調査を実施した。

神戸の有本さん宅にも脚を運んだ。明弘さんの記憶では、

来訪した兵本氏は、「党の許可を得た上での行動です。」と

ご夫妻に明言したそうである。

同年秋の臨時国会にて取り上げられる可能性もあったが、

年を越して平成8年の春、いよいよ橋本代議士が質問に立つという事になり、

有本さんへも連絡が入った。(つづく)

9月 5

父、明弘さんの確信

本紙25号記載、昭和63年3月26日の参議院予算委員会における、

共産党の橋本敦議員<当時>の質問は、

「拉致事件」に関する初めての国会質問と称するに価するものであった。

同委員会では竹下内閣の宇野外相及び梶山国家公安委員長が

明確に事件を認めた上で、事件性とその緊急性に言及していたのである。

ご夫妻が恵子さんの生存情報を手にしたのは、同年(1988年)9月であり、

暗中模索の中あらゆる可能性を考えて東奔西走していた頃、

既に政府や国会は「拉致事件」を知っていたという事になる。

もちろん恵子さんの事件そのものは委員会議事録には見当たらない。

しかし、斯くも明瞭に「北朝鮮の国家意志」による事件を認めておきながら、

再三にわたるご両親の陳情に対し、外務省をはじめとする政府機関、

官僚、国会議員、マスコミの冷徹な態度は理解できない。(つづく)

9月 3

「流れ」は変わった。そして、そこには明らかな分水嶺が在った。

3月11日の八尾恵さんの謝罪と告白が全国に放映された事と、

翌日の金子(赤木)恵美子第2回公判における証言がそれである。

今やメディアは挙って「北朝鮮問題」を語る様になり、

かつての「帰国事業」に対する批判にまで遡及するものまで現れ、

北の擁護者は急速に力を失ったかに見える。

私たちは今の世情に諸手を挙げて歓喜すべきなのか?

これは状況が変化したに過ぎず、

安定した東アジア新秩序が訪れた訳でもなければ、

拉致事件解決の光明が灯った訳でもないのである。(つづく)

9月 2

このシリーズは、昭和58年(1983年)語学留学の途中に立ち寄った

コペンハーゲン(デンマーク)から、ピョンヤン(北朝鮮)へ拉致された

有本恵子さん(当時23歳)の両親に対する、

「救う会・兵庫」スタッフによる聴き取り調査に基づくドキュメントである。

「流れ」は変わった

7月25日(木)<平成13年>脱北した帰国者・李昌成氏が参考人として

出席する衆議院安全保障委員会に、有本さんご夫妻が、

救う会全国協議会幹事の西岡力氏<当時>ら関係者と共に参考人として出席した。

また、先にカナダにて開催されたサミットでも取り上げられ、小泉首相<当時>が

各国首脳に「拉致事件」解決への協力と理解を要請した事も記憶に新しい。(つづく)

9月 1

(解説)

27日の公判では、よど号グループの妻たちが

モールス信号や乱数表を用いて、北朝鮮の指示を仰いでいたことや、

八尾さんが横須賀市内に飲食店「夢見波」を開店させた理由が、

自衛隊などの動向を調査するためだった事などが明らかにされた。

本証言を受けて、3月12日には自民党衆議院議員であり

日朝議連・拉致議連の会長(3月25日に辞任)の中山代議士<当時>が、

有本さん宅に電話をかけ「救う会の活動をとるのか、私をとるのか」

と恫喝に等しい事を嘉代子さんに伝えた。

嘉代子さんは中山代議士<当時>に対し、「家族会で一緒にやっており、

全員が無事帰ってこられる様に皆でやっているのだから、

自分達だけ特別な扱い(平壌に行って会ってくるような事)は出来ない」と伝え、

「救う会の方をとります」と答えた。

これは24日の「緊急報告会」にて明らかにされた。

なお、中山発言に前後して、

「非公式ながら有本恵子さんの無事を北朝鮮が認めた」という報道があったが、

ご両親は「帰国して、この国で会う。」ときっぱり。

北朝鮮は未だ恵子さんの肉声をご両親に伝えていない。

確たる証拠なしにかの国と交渉する事が、如何に馬鹿げているか、

もういいかげんにマスコミや、政府、国会議員は学習したはずだが・・・。

(特別号「日本赤軍よど号犯の妻、金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録おわり。

次号につづく)

8月 31

(解説)

27日の公判では、よど号グループの妻たちが

モールス信号や乱数表を用いて、北朝鮮の指示を仰いでいたことや、

八尾さんが横須賀市内に飲食店「夢見波」を開店させた理由が、

自衛隊などの動向を調査するためだった事などが明らかにされた。

本証言を受けて、3月12日には自民党衆議院議員であり

日朝議連・拉致議連の会長(3月25日に辞任)の中山代議士が、

有本さん宅に電話をかけ「救う会の活動をとるのか、私をとるのか」

と恫喝に等しい事を嘉代子さんに伝えた。

嘉代子さんは中山代議士に対し、「家族会で一緒にやっており、

全員が無事帰ってこられる様に皆でやっているのだから、

自分達だけ特別な扱い(平壌に行って会ってくるような事)は出来ない」と伝え、

「救う会の方をとります」と答えた。

これは24日の「緊急報告会」にて明らかにされた。

なお、中山発言に前後して、

「非公式ながら有本恵子さんの無事を北朝鮮が認めた」という報道があったが、

ご両親は「帰国して、この国で会う。」ときっぱり。

北朝鮮は未だ恵子さんの肉声をご両親に伝えていない。

確たる証拠なしにかの国と交渉する事が、如何に馬鹿げているか、

もういいかげんにマスコミや、政府、国会議員は学習したはずだが・・・。

(特別号「日本赤軍よど号犯の妻、金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録おわり。

次号につづく)

8月 30

ここで山室裁判長が検察側に「あとどれくらい時間がかかるのか」と訊ねたら、

「あと1時間ほど」と答えた。

すると弁護人が「あと1時間なんて信じられない。何か新しい話でもあるのか」と怒る。

検察側は「八尾証人が日本で任務に就いていたという事実関係と、実家にばれない様に、

偽名を使っていたということなど」と答えたが、

弁護人は「そのことは直接、金子被告が関係あることなのか」とまた怒る。

裁判長は「検察側の1時間というのは常識はずれ、今日はここまでで緊張維持の限界。

次回は3月27日13時30分から425号法廷、傍聴は抽選で行う」と宣言、

次回も八尾証人の尋問の手続きということに決まった。

16時40分 閉廷

16時45分 法廷から玄関に向かう廊下で、(金子の)弁護人どうしが立ち話をしている。

「公安にパスポートの返納命令を出した根拠を訊く、

被告人が工作員だと言うつもりだろう・・・」(○○市、MM)(つづく)

8月 29

一般的な海外ルートは、平壌→モスクワ→ベオグラード→ザグレブ→ヨーロッパ各国。

帰りは、コペンハーゲンもしくはウィーン→ザグレブ→ベオグラード→モスクワ→平壌。

ザグレブやベオグラードは北朝鮮と国交があったため、

北朝鮮外交官が居たので拠点にしていた。旅券の交換などもしていた。

連絡は、平壌からザグレブにはテレックスで連絡し、

ザグレブから前線基地へは電話連絡を用いて、早くて2日かかった。

証人は1997年2月に北朝鮮に行き、日本の旅券を預け北朝鮮の旅券を作った。

1979年にスペインに活動に行くときに、日本の旅券が証人に返された。

証人やよど号犯人たちは、北朝鮮の公民旅券で、北朝鮮外交官と一緒に

ザグレブなどの空港で出国手続きをしてから、日本の旅券に取り替えていた。

外交官とはキム・ユーチョルやチョウなどである。1984年頃から、

証人は日本へ活動に入るようになってから、日本旅券を持ったままとなった。

旅券は布袋に入れ、太もものサポーターにはさんで隠していた。(つづく)

8月 28

「北朝鮮でアルバイト中の滞在費はタダ、社会主義国は面白いよ」と

安部とキム・ユーチョルが有本恵子さんに言った。

「北朝鮮で何が売れているか」という調査の内容を、

証人が「面白そう」と言うと、

有本さんは「あなた(証人)が一緒なら」という条件を提示した。

安部が証人に「あなたは先に他のアルバイトがある」と言った。

有本さんは証人が後から必ず来るならということで了解した。

キム・ユーチョルがビザ申請のためと理由を告げて、

有本さんの旅券を預かった。

翌日、証人と有本さんが空港で安部とキム・ユーチョルに会い、

有本さんとキム・ユーチョルがコペンハーゲンからモスクワに向かった。

その後、証人は他の女性を探すためにロンドンに戻った。

(有本恵子さんの写真を示す、

隣のキム・ユー・チョルが居る)16時09分

田宮の指示で、証人と安部とキム・ユーチョルが有本さんを騙して、

北朝鮮へさらって行って結婚させた。

その後、田宮から「有本さんは元気だ」と聞いた。

証人はその後、有本さんに会っていない。

森ヨリコと黒田サキコのさらって来た男性と有本さんを結婚させた。

有本さんの教育係は、水谷キョウコと赤木志郎だった。

「自分達の勝手な思いで有本さんやご家族の人生を滅茶苦茶にして申し訳ない。

有本さんが早く帰国できるよう、こうして証言しました。」(16時14分)(つづく)

8月 27

証人はコペンハーゲンからザグレブに報告のために戻った。

1983年6月頃、五六課のキム・ユーチョルと安倍に報告した。

ザグレブから平壌の田宮にテレックスで連絡し、OKをとりつけた。

証人がキム・ユーチョルと一緒にいるところを、

西側諜報機関に監視されていたことは、神奈川県警で初めて知った。

9月中旬に、安部とキム・ユーチョルが

有本さんに北朝鮮で仕事をしないかと誘った。

ザグレブから有本さんに電話して、仕事先が

ハンブルグからコペンハーゲンに変更になったと言った。

有本さんは承諾した。

証人は有本さんと会い、中華料理店で安部と合流した。

「貿易会社をやっている。市場調査のアルバイトをして欲しい。

北朝鮮に調査の現場がある。」と安部が誘った。

キム・ユーチョルは遅れてやって来た。

安部がキム・ユーチョルを有本さんに紹介した。

「私は北朝鮮の貿易会社の社長」とキム・ユーチョルは自己紹介した。(つづく)

8月 26

有本恵子さんは留学中だった。

「もうすぐ帰国する、思い切って日本を出てきたから、

働きながら世界を見たい」と言っていた。

市場調査のアルバイトで、証人は有本恵子さんを釣った。

「私も世界をアルバイトしながら回っている、

ある会社の市場調査の仕事をしている。

私はロンドンを離れるので、あなたに代わりをして欲しい」

と証人のアパートで話したら、有本恵子さんは興味を持った。

ロンドンからザグレブに電話して、

安倍に「いいのが獲得できそうだ」と言った。

コペンハーゲンで有本恵子さんと会って、北朝鮮へ連れて行った。

有本恵子さんには、「ハンブルグにアルバイト先がある」と言っていた。

コペンハーゲン(デンマーク)は北朝鮮と国交あり、

活動ではいつも使っていた。

何故有本恵子さんに対し、

コペンハーゲンを隠してハンブルグと嘘をついたかというのは、

いつもよど号犯人たちが利用していたので、

もし田宮から「有本さんではダメだ」と言われた場合、

警察や西側諜報機関に秘密が漏れる危険性があったから。(つづく)

8月 25

1983年1月頃に革命村の田宮の執務室で、

証人と福井が任務を与えられた。

「25歳くらいまでの女性を何人でもいいから獲得しろ」

それまで田宮からの任務は男女を指定しなかったが、

このときは女を指定した。

「男ばっかり獲得しとったらあかんやろ、女も獲得せんと・・・」

田宮が証人に向かって言った。

すでにさらわれて来ていた2名の男性を、

金日成主義化するため結婚させる女性が必要であるということだった。

福井と証人の共同任務中、3月にロンドンで活動中の本部から

「すぐ帰れ」と連絡があった。

5月にザグレブの基地で、田宮から「この前の任務の続きをやれ」と言われた。

これは、すでに獲得した男性の結婚相手をさらうことである。

1983年4月中旬に証人はロンドンに入り、

インターナショナルハウスという語学学校で有本恵子さんと知り合った。

証人はこの時、「ヤノ ムツミ」もしくは「ヤダ ムツミ」と名乗っていた。

有本恵子さんは獲得対象者にピッタリだった。(つづく)

8月 24

工作で海外へ行く子とを「出張」と呼んだ。

海外任務の資金は田宮から渡された。

日本人を獲得する場合の条件は、正直で素直、義理堅く、

警察が家族や親族・友人におらず、両親から独立していること。

証人が実行した共同任務は、スペインの他、

1981年3月か4月頃から7月までフランス、1983年3月にイギリス。

他のメンバーの任務についても知っていた。

それは、革命村での生活の中や、出発前の見送りのときに分かった。

見送るために集まることを「決起集会」と呼んだ。

ユーゴスラビア・ザグレブによど号犯人たちの前線基地があった。

常駐者は赤木、田中、安部が交代で就いた。

証人はここで常駐者以外とも数多く会った。

日本人獲得は、男達が国際指名手配されていたので、

女達が中心になって実行した。キム・ユーチョルと証人の実績としては、

1983年7月頃、有本恵子さんを見つけ出し獲得したこと。

(この発言は15時36分)(つづく)

8月 23

チョウ先生も五六課所属、ユーゴスラビア・ザグレブにある

北朝鮮大使館の副領事だった。海外活動を主にしていたが、

日本語は下手だった。後に段々上手になった。

(チョウの写真を見せて確認、金子の写真を見せて確認)

よど号犯人たちは彼らと共に海外で活動する。

証人は1979年12月から1980年1がつまでスペインに行った。

1983年末頃までヨーロッパで活動、人さらい以外では、

旅券の更新や労働党関係の仕事で海外に出た。普段は田宮から任務が来るが、

たまに労働党から直接、工作場所の偵察の任務が来た。

革命村では、配給以外に1ヶ月に130ウォン支給された。

外貨と交換すると値打ちが上がり、1ウォンで子供の下着が買えた。

資金稼ぎの目的で海外へ行った事はない。(つづく)

8月 23

証人が初めてキム・ユーチョルと招待所で会ったのは、1977年3月か4月頃、

同人は五六課の副課長、革命村では田宮とよく討論していた。

彼のあだ名は「カゲッソ」、口癖からこの名がついた。皆カゲッソ先生と呼んでいた。

キム・ユーチョルは海外へよく行っていた。

ユーゴスラビア、オーストリア、デンマーク、フランスなど。

肩書きは、ユーゴスラビア・ザグレブにある北朝鮮大使館の副領事だった。

(キム・ユーチョルの写真を見せて確認)

証人は神奈川県警で写真を見せられたときに、

キム・ユーチョルの素性を隠そうとして、中国人のリュウだと言った。

キム・ユーチョルの別名は「ウツノミヤ オサム」。

証人はフランスやアジアでこの旅券を見た。キム・ユーチョルは日本語がとても上手だった。

1977年5月か6月頃に、「チョウ先生」という人にも革命村であった。

14時50分 休憩

15時16分 再開、引き続き検察尋問に八尾証人が答える。(つづく)

8月 22

「よど号犯人たちは結婚して子供を産んで日本革命をする。

党創建準備委員会を作って日本を金日成主義化する。」

党の委員長は田宮、副委員長は小西。

田宮の話、「金日成が、日本を金日成主義化するとしたことに関する内容は、

党創建でり、中核となる日本人を獲得せねばならない。

目的は、指導中核の発見育成。金日成主義に合った人材を海外で見つけ、

それに思想教育を施す。獲得方法は思想的な場合は別にして

色々な方法がある。対象者の要求に合わせて誘い、嘘の口実で獲得する。」

証人は当時、金日成主義は絶対だと考えていた。日本革命のためには、

人をだましても良いと思っていた。当時はそれが良い事だと信じていた。

人さらいはよど号犯人たちだけでは無理で、労働党連絡部五六課が協力していた。

これは金日成が指導する、よど号犯人専属部署。

金日成がよど号犯人たちと初めて会ったのが5月6日だったので、

五六課が創設された。(つづく)

8月 21

革命村では朝食後、本部に集まって朝の会議をした。その日の計画を発表し、

学習として労働新聞を読んだ。「抗日運動」の時の活動家連中が歴史として登場する。

昼食までは個人の学習を本部でやる。昼食後2時間は休み、

その後本部で活動準備。週に1回は映画がある。

夕食は1984年までは食堂で全員一緒に食べたが、1985年からアパートで妻たちが

作って食べるようになった。夕食後は個人学習、たまに映画があった。

これが平日の日程。

土曜日は、午前中金日成主義について学習、

その論文について討論。午後は生活総括。

日曜日は基本的に休み。

任務とは教示のことである。証人は1977年5月14日に革命村で

金日成と会った。直接、革命村の中で妻たちに対し

「学習して立派な革命家になれ」と教示。

証人は当時朝鮮語が分からず、後からよど号犯人たちに訳してもらった。

1978年末、田宮から金日成の教示についての話があった。

日本を金日成主義化するための具体的内容の総会があり、全員主席していた。(つづく)

8月 20

1987年10月17日に帰国するまで、その間10年間は北朝鮮にいた。

日本革命村は平壌郊外のテドンガンのほとりにある。

ゲートがあり、フェンスで囲まれている。人民軍が警備しており、

自由に出入りはできなかった。

よど号犯人たちに与えられていたのは、家族単位のアパート、事務所、

会館(ここでは学習会や映画がある)、食堂、それらとは別に労働党の事務室がある。

よど号犯人以外では、管理所に労働者がおり、金日成総合大学の研究室もある。

よど号犯人の指揮系統は、田宮→小西→男達→妻たち。

革命村での生活は、朝6時30分起床、体操とランニング、妻たちは食事を用意、

男達は掃除。教育プログラムは妻たち8人が受けた。

1977年5月から1978年末頃まで教育を受けた。指導者から、「もう卒業だ」と言われた。

教育内容は、金日成思想、金日成哲学、政治経済、歴史、朝鮮語など。

指導者は社会科学学院や金日成総合大学の教授たちが先生。(つづく)

8月 19

1984年7月19日まで証人は帰国していない。3ヶ月で帰国しなかった理由は、

北朝鮮で思想的教育を受けながら、よど号犯人たちを日本の革命家として紹介され、

無理やり結婚させられたから。結婚式は日本革命村で1977年5月4日にあげた。

前日には赤木と金子恵美子が結婚し、翌日には田中と水谷キョウコが結婚したと、

労働党のものや田宮から聞かされた。吉田金太郎には会ったことがない。

よど号犯人たちが急に結婚した理由は、1975年5月6日に金日成がよど号犯人たちと会い、

全員に結婚命令を出したから。労働党の者やよど号犯人たちから

「教示」(きょうしと証人は言う)のことを聞いた。

教示とは金日成の思想を明らかにした日本革命への指示のこと。

結婚式は、金日成と金正日に対する感謝と忠誠を誓う手紙を書いて読み上げることをする。

(よど号犯人たちの写真を見せる、全員の名前を言う。柴田の写真も見せて確認)(つづく)

8月 18

証人は1988年5月22日に、アパートを借りる時の有印私文書偽造で逮捕され、

22日間拘留され、略式起訴され、罰金刑を受けた。

金日成主義化する目的で同じ活動をしていたので、証人と被告人は同じである。

1977年5月4日に証人と被告人は初めて会った。証人と柴田の結婚式の時である。

証人は1977年3月に北朝鮮へ行った。関西生まれで、友人に在日朝鮮人が多かった。

彼らが差別されているのでチュチェ研究会に入って勉強した。その勉強会をやめた後、

在日朝鮮人に誘われて北朝鮮へ行った。在日の名前は松山、

3ヶ月ぐらいの短期留学ということで誘われた。

ルートは、伊丹空港から香港→マカオ→中国→北朝鮮。

証人の出入国記録は、最初の出国は1977年2月27日。マカオで二人の北朝鮮人と会った。

マカオから中国に入るときには、日本の旅券を預けて、北朝鮮の旅券をもらって入国した。

証人は一人で、平壌郊外の招待所で思想的な教育を受けた。(つづく)

8月 17

「検察の証人尋問」  ・・証人の発言要旨

被告人とは1977年5月頃から平壌の日本革命村で出会い、約10年間生活を共にした。

日本革命村とは、金日成主義で日本に革命を起こさせるために活動する

根拠地、思想、目的を同じくするグループの村。

よど号グループとは、よど号ハイジャック犯人とその妻たち、一緒に暮らしていた。

証人は柴田の妻だった、被告人は赤木の妻だった。それらが一緒に生活していたのが日本革命村。

組織名は、証人は中山アキ子、被告人は山本ユウ子、呼び方は○○同志。

証人が旅券返納命令を受けたのは、1979年から北朝鮮の工作員と一緒に活動していたから。

1988年1月末に旅券返納命令を受けた、翌月始めに返納した。

被告人を含めた5人の妻たちにも命令が出ていた。

このことは、証人はテレビ等のニュースで理由も含めて知った。(つづく)

8月 16

3月12日

東京地裁 刑事第五部 104号法廷

検察官 新倉英樹・野村安秀

裁判官 山室恵・辻川靖夫・坂田正史

11時30分 すでに50人ほどが傍聴券を求めて並んでいる。

TV東京とフジTVは裁判所入り口にスタンバイ、

横田さんご両親も傍聴券を求めて57番目あたりで並んでいる。

12時20分に傍聴券64枚が配布される。Mは61番。

12時45分 有本さんご両親がマスコミに囲まれながら裁判所に到着。

12時40分 SKさんが傍聴券は抽選だと思っていたと嘆きながらやってきた。

12時50分 黒色ミニバンが屋根にスピーカーを2台取り付け窓にスモークを貼って

裁判所にやって来て、女の声で喚き始めた。(これが赤軍支援者か?)

13時30分 2分間のテレビ撮影。

13時33分 金子が手錠・腰縄で入廷、エンジ色のボロセーターに黒色ボロズボン。

弁護人は開廷前に、弁護人にも開示されていない八尾恵の話を検察がマスコミに流したことに対して抗議、

八尾の尋問に対しても細心の注意を要すると訴えた。

弁護人が本日の証拠として同意したのは、ホテル宿泊カード・よど号メンバー写真・その他写真のみ。

八尾証人入廷、オレンジ色のスーツ、白のブラウス、しわひとつない、長い髪もつやつや、

やたら明るく傍聴席に笑顔を見せる。13時宣誓。(つづく)

8月 15

3月12日(平成14年)、

日本赤軍よど号グループの柴田康弘の元妻で、

本紙にも彼女の告白記事を引用したことのある、

八尾恵さんがついに

「自らが有本恵子さん拉致実行犯である」と、

金子恵美子(旅券法違反、

有印私文書偽造・同行使事件で公判中)の法廷にて証言した。

前夜のニュース番組の特集では「ご両親への謝罪」も放映され、

「拉致事件」は朝野を駆け大きな展開を見せるに至っている。

本紙編集部は、予ねてより様々なご協力を頂いている、○○市ご在住のMM氏に

裁判の傍聴をお願いしたところ快くご承諾頂き、詳細な傍聴記録を賜った。

平日にも関わらず、ご足労頂いたMM氏に謝意を表します。ありがとうございました。(つづく)

8月 15

昨年秋からの中断で

ご支援いただいております皆様方には

大変ご迷惑をお掛け致しましたが

このたび

多くの皆様方からの強いご要望もあり

『恵子、お母さんは待っていますよ!』の連載

(「グローカルひょうご」からの転載)を

再開させていただくことになりました。

拉致問題は解決に向けて全く前に進みませんが

是非ご一読賜り

「絶対に”拉致”は許さない!

全員救出、完全解決」との決意を

新たにしていただきたいと存じます。

何卒よろしくお願い申し上げます。

(「グローカルひょうご」は

かなり前に同志の方々と手作りで作成していたミニコミ誌で

どうしても一部発見できない号があり

その号に掲載されていた部分は転載することができません。

発見できない号の次の掲載分

特別号「日本赤軍よど号犯の妻、

金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録」から

転載を再開させていただきます。

ご了承の程、お願い申し上げます。)

代表 大矢卓志

2月 12
■「あんな手紙では北朝鮮に言えない・・・」裏切られた金丸訪朝■
先遣隊が訪朝した直後、すぐに上京して石井先生に会いました。もちろん
期待の気持ちでいっぱいでした。ところが石井先生は「あんな手紙ぐらいでは、
北朝鮮には言えないので」と、開口一番おっしゃいました。
私はわが耳を疑いました。それで思わず「え?」と聞き返すと
「まあ、だから北朝鮮には言っていない」と言われました。
全身から血の気が抜ける思いでした。目の前が真っ暗になりました。
ちょうど2002年9月に当時の福田康夫官房長官から恵子が「亡くなっています」
と通告されたときと同じでした。
石井先生は後日、「あんな手紙ぐらいでは」と言ったのは北朝鮮の人間で、
この件はきちんと北朝鮮側に伝えた、などと私どもがはじめに耳にした説明とは
全く異なる発言をされています。
しかし、1990年9月に大々的に報じられた金丸訪朝でも、その直後の
小沢一郎自民党幹事長らの訪朝でも恵子たちの問題をはじめとする拉致問題は
まったく取り上げられませんでした。
当時、金丸訪朝は、日朝国交への扉を開いたなどと評価されていましたが、
実際は、拉致問題の解決なしの日朝国交正常化を目指すという、
許し難い外交を行ったのです。
現在(平成19年11月当時)、民主党代表である小沢氏は、
自身が自民党幹事長としてかかわった金丸外交について
反省の弁をいまだに述べていません。
それでは政権を担うかもしれない第1野党党首の資格を疑われる。
私はあえてそう言いたいのです(政権が交代したことはご周知の通り)。
(つづく)
*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載))

■「あんな手紙では北朝鮮に言えない・・・」裏切られた金丸訪朝■

先遣隊が訪朝した直後、すぐに上京して石井先生に会いました。もちろん

期待の気持ちでいっぱいでした。ところが石井先生は「あんな手紙ぐらいでは、

北朝鮮には言えないので」と、開口一番おっしゃいました。

私はわが耳を疑いました。それで思わず「え?」と聞き返すと

「まあ、だから北朝鮮には言っていない」と言われました。

全身から血の気が抜ける思いでした。目の前が真っ暗になりました。

ちょうど2002年9月に当時の福田康夫官房長官から恵子が「亡くなっています」

と通告されたときと同じでした。

石井先生は後日、「あんな手紙ぐらいでは」と言ったのは北朝鮮の人間で、

この件はきちんと北朝鮮側に伝えた、などと私どもがはじめに耳にした説明とは

全く異なる発言をされています。

しかし、1990年9月に大々的に報じられた金丸訪朝でも、その直後の

小沢一郎自民党幹事長らの訪朝でも恵子たちの問題をはじめとする拉致問題は

まったく取り上げられませんでした。

当時、金丸訪朝は、日朝国交への扉を開いたなどと評価されていましたが、

実際は、拉致問題の解決なしの日朝国交正常化を目指すという、

許し難い外交を行ったのです。

現在(平成19年11月当時)、民主党代表である小沢氏は、

自身が自民党幹事長としてかかわった金丸外交について

反省の弁をいまだに述べていません。

それでは政権を担うかもしれない第1野党党首の資格を疑われる。

私はあえてそう言いたいのです(政権が交代したことはご周知の通り)。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 9
田中実さん拉致事件と救出活動について(20)
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告発の取り扱いについて

・韓の告発から2年5ヶ月、曹の告発から1年7ヶ月が経過しているが(当時)、

もし、事実誤認があって犯罪が成立しているのならば、

一刻も早くそれを公表して両名の名誉が不当に毀損され続けている状態を、

終わらさなければならない。

・あるいは、犯罪の事実はあるが起訴が難しい場合、

これは捜査を怠る(たな晒しにする)理由にはならず、

捜査しなくてはならない。

・道義的責任があっても、法律が無いために犯罪が成立しないのであれば、

国家の治安維持の根幹に関わる重大事であるから、

直ちに立法処置が望まれる。

・時効が成立するか否かが判断し難いならば、

内閣法制局に見解を出させる必要がある。

・上記の点を放置したまま、

事実上、たな晒しの状態を続けている現状は許されないのではないか。

(告発の取り扱いについて おわり。以下つづく)

2月 6
田中実さん拉致事件と救出活動について(19)
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問題点

(韓国の司法当局への告白について)

・韓竜大と曹廷楽の両名に共通する供述の中に、

「韓国へ行って当局に洗いざらい話した」という

くだりが存在する。

さらに、曹の話によれば、韓国での供述に基づき

日本の警察も聴取にやって来て、それに応じた

とある。

・これが真実ならば、日韓の超法規的捜査協力の存在が

疑われる。

・また、日本の警察にも、、、ということになれば、

一種の司法取引が超法規的に為されたということに

ならないか?(問題点おわり 以下つづく)

2月 5
田中実さん拉致事件と救出活動について(18)
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問題点

(田中実さんの出国に関する疑問)

・韓竜大の告発について、警察は

「出国記録ならびにパスポート申請記録を

探しているが、当時はすべて紙媒体であり、

保管されていない可能性が高い」として、

物証がないと言わんばかりである。

しかし、それならば、

平成8年12月の兵庫県議会警察常任委員会における

警備部長答弁では、何故

「昭和53年6月6日」出国と認めたのか?(つづく)

2月 4
田中実さん拉致事件と救出活動について(17)
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曹廷楽告発へ

・曹は当初激しく抵抗したが、すぐに落ち着きを取り戻し

着席して私たちの質問に答え始めた。

やり取りは1時間以上に及び、概ね以下のような理由から、

私たちは曹の告発へ踏み切る決意を固めた。

①田中実さんが拉致されていること自体は否定しない。

②平成14年韓国へ渡り、当局へ身の上を告白している。

韓竜大は2年前にそれを終えている。

③名誉を守る手立てを講じない理由はなかった。

④肝心な部分は否認するのではなく、韓竜大に訊け、とはぐらかす。

⑤文書による回答を求めた質問状にまともに答えようとしない。

⑥罪名罰条は前回同様に、平成15年7月22日に提出した。

受理は約10日後だった。(韓竜大告発へ終わり 以下つづく)

2月 3
田中実さん拉致事件と救出活動について(16)
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曹廷楽告発へ

・平成15年6月、

ある雑誌社から直撃取材同行のオファーを受けた。

「この機を逃してなるものか」

私、長瀬と岡田氏の2名は躊躇なくこれを承諾、

直ちに山形へ飛んだ。

(FRIDAY2003年6月20日号参照)

・張り込み3日目、

奇跡的に温泉へ出かける曹をキャッチ、

直撃取材が成功した。(つづく)

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