10月 12

八尾恵氏は昭和63年5月25日、

神奈川県警に

有印私文書偽造(本名を偽り家屋の賃貸契約を結んだ)容疑で

逮捕されるまで、

横須賀市内で「夢見波」というスナックを経営していた(詳細は「宿命」に記載)。

救う会全国協議会・佐藤勝巳会長(当時)は、

去る9月9日(平成13年)に行われた

「よど号妻たちへの拉致問題での徹底した取り調べを求める集会」

において、

「八尾恵氏の帰国(潜入)の目的は、在日米軍の動向を調査するためであり、

そのために横須賀市内でスナックを開いた。」

と明らかにした。

結局、

彼女に対するスパイ容疑は立証されなかったが、

彼女が現在、

自由を手にしているということは、

来たる9月18日(平成13年)に帰国するという

金子恵美子(よど号グループ赤木志郎の妻)に

少なからず影響を与えていることは間違いない。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 11

8月号(平成13年)の週間新潮に

「私はよど号犯(柴田)と強制結婚させられた」

と題する手記が掲載された。

これは柴田泰弘と北朝鮮で結婚、

2児を出産した後に帰国(潜入)して逮捕された

八尾恵氏の手記である。

その中で「このことが真実であると断言できるのは、

当時よど号グループの一員であった私自身が、

田宮高麿から指示・命令されて、

こうした拉致・誘拐作戦の一端を担ったことがあるからです」と

告白している。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 10

嘉代子さんは

市民柴田の第一印象を「頼りない感じの男で、

とても大事件の犯人には見えなかった。」

とも語った。

「恵子のことを知っているんでっしょ!」と嘉代子さんが詰め寄ると、

彼は「そんなオバサン知らん!」と即答した。

母は直感した。

「絶対知っている・・・」と。

「柴田が北朝鮮に居た頃は、娘はオバサンではないはず。

もしオバサンの恵子を見たならば、

それは最近のことでしかないはずです。」

そう話した後

、嘉代子さんは悔しそうに、

唇をかみ締めていた。

ヤサ男は「知らん、知らん」の一点張りで何も語らなかったという。

 

 なお、

柴田逮捕の直接の容疑は

、旅券法違反であり、

逮捕時、

彼が所持していたパスポートは、写真を張り替えただけの、

Iさんのものだった。(田宮高麿の死おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 8

以前にも触れたが、

よど号グループで一足も二足も早く帰国を果たした

柴田康弘は、

昭和45年4月のハイジャック事件(当時17歳)で平壌へ渡り、1

8年後の昭和63年(1988年)5月6日に

兵庫県警に逮捕され、

平成6年(1994年)7月21日に刑期を終えて出所し、

今は大阪で市民生活を謳歌している(当時)。

嘉代子さんは柴田に会うべく大阪を訪れた。

 柴田は市立須磨高校に在学中に事件を起こしたが、

なんと恵子さんも同校の卒業生だった。

因縁めいたものを感じずにはいられない。

彼は恵子さんの“とんでもない”先輩だったのである。

「とにかく大変な騒ぎでした。

この学校は優秀な進学校として有名だったのに、

一転して大変な不名誉で有名になったと、

学校関係者は今でも嘆いています。」と

嘉代子さんは語る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 7

石高氏と共に再来していた高沢氏は、

最後に、

著書にも記していない極めて興味深いことを有本夫妻に告げた。

それは田宮高麿の死についてである。

彼は平成5年11月30日突然病死したと

北朝鮮が発表したが、

高沢氏はこの直前に田宮と会っていたそうである。

そして、

本人の口から「自分たちが連れてきた(拉致した)日本人については、

自分たちの手で日本に帰してあげたい・・・」と

衝撃的な告白を田宮から受けたのであった。

田宮は自分たちのパスポートが

無断で各種工作に用いられていることに対して

当局に不服を申し立てており、

それらの点を勘案すれば、

彼は処刑もしくは殺害された可能性が極めて高いという。

(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 6

高沢氏は著書に、

札幌のIさんが

よど号の妻2人と公園(動物園)のベンチで撮ったスナップ写真を示して、

彼女たちが同時期、

頻繁にコペンハーゲンで

活動していた証拠を示している。

そのIさんと一時期であれ恵子さんが行動を共にしていたという事実、

現地公安当局がマークしていた工作員キム・ユーチョルと

恵子さんが一緒に写った写真が存在すること、

そして、

恵子さん本人が北朝鮮に居るということを合わせて考えれば、

日本赤軍よど号グループが

拉致誘拐の実行犯であることは自ずと導かれる結論であろう。

もちろん現段階(当時)では「疑い」の域を出ないが、

もしこれが国内であれば、

容疑者と推定するに十分な状況証拠と言えるのではないか。

(検証・最後の音信おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 5

その手紙は最後の音信となるが、

日付入りの最後の手紙は

同年(1983年)7月4日付けのものである。

この2通の手紙は同じ便箋で書かれており、

7月4日付けの方には以下のような記載がある。

「ロンドンを出てコペンハーゲンに来たものの、

観光シーズン真っ只中でユース等は一軒も空きがない。

そこで仕方なく高価なホテルに宿泊したが、

(滞在が長引きそうなので)アパートを借りて住んでいます。

ホコリ臭いところです・・・」と。

 嘉代子さんは

「本人がいう市場調査に関する仕事上、

誰かを待って1人でコペンハーゲンに留まっていたということは、

相当に信頼できる人物と出会っていたはずであり、

本人の語学力からしても、

それは日本人であろう。

そして、

本人の性格や素行からみても女性に違いない」と推測している。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 5

ここで

有本恵子さんのご両親の了解を得て

実際の手紙を画像にて公開します。

keiko_letter

クリックすると大きくなります。

10月 4

この事実について、

高沢氏は「アリバイ工作のために工作員から勧められて記したものであり、

季節の違う、

あるいはコペンハーゲンではない所で

作為的に記されたものである。

その証拠として、

同市の緯度は北海道より北に位置し、

10月は秋というよりは初冬であり、

肌寒い涼しさとはほど遠い。

また夏との比較で

観光客が「今は少し減ったようです」というのも、

曖昧な表現を試みたが故に、

実際のコペンハーゲンとは異質である。

さらに、

仕事に関する記述は脈絡がなく

、誰かに言われるがままに記した疑いを強くするものである。」

と分析している。

(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 3

実は1月(平成13年)に有本家にうかがった折、

高沢氏の著書

「宿命・よど号亡命者たちの秘密工作」

という本を拝借した。

その本には、

前に取り上げたIさんからの手紙に関して詳細に記述されており、

事件に対する洞察や推察が緻密な取材に基づいてなされていることが、

今回の聞き取りで実証されたと筆者は考えている。

その著書でも取り上げられているが、

恵子さん本人からの最後の音信は、

不思議な手紙であるという。

 恵子さんを幼い頃から可愛がり、

渡航にも理解を示していた明弘さんの妹さん(恵子さんの叔母)が

その手紙を見た瞬間、

「これおかしいんとちゃう?」と直感的に指摘されたそうである。

その手紙の右上にある「1983年10月頃」の記述は、

手紙を受領した後に嘉代子さんが書き加えたものであり、

もともとは日付の記載がなかったのである。

今回の聞き取りで、恵子さんが家族に送った多くの手紙を拝見したが、

日付がないものはそれ1通のみであった。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

10月 3

読者の皆様へ

少しお休みしていましたが、準備が整ってきたので

再開させていただきます。

9月 27
あらためて拉致とは?拉致解決とは?(続)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 09 27th, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

日の丸ブルーリボン・バッジはじめ

ブルーバッジご着用の皆さんは、

「拉致」が国や社会のあり方の根幹に関わる問題と

認識されている方々であると思います。

(国家主権の侵害であり国民の命に直結する問題)

⇒ぜひ、皆さんには、

支持されている、あるいは地元の代議士に

日本丸の根幹に関わる問題の重要ポイントについて、

あらためて問い質していただきたいと思います。

(拉致とは?拉致解決とは?拉致認定基準とは?・・・)

樹は、根っこや幹を蔑(ないがし)ろにして、枝も葉も育つ道理がない!

と思うのですが、間違っているでしょうか?!

9月 26
あらためて拉致とは? 拉致解決とは?
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 09 26th, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

ブルーリボン・バッジを着用の皆さん、

当会のHPをご覧いただいた皆さん、

あらためて拉致問題の解決とは、一体何を指すのでしょうか?

それは、申すまでもなく、

全ての

拉致被害者の救出と拉致が疑われる

事例の全容解明(救出)に他なりません。

では、

・拉致被害者は全員で一体何人存在するのでしょうか?

 

・被害者は、現在政府が認定している方々だけなのでしょうか?

 

・政府が拉致と認定する、しないの基準とは、一体何なんでしょうか?・・・
皆さんは、これらの重要ポイントについて、

どのようにお考えですか?

人の命に思い軽いは絶対にあってはなりません。

「全員救出、完全解決!」

この原理原則を見失うことなく、

ブルーリボン運動の輪を

もっともっと広げてまいりましょう!

9月 23

嘉代子さんは、

高沢氏から譲り受けた乳児の写真を両手で持ち、

声を震わせながら続けた。

「この子は長女に続く2人目の孫なんです。

どうしてこの子だけこんな不憫なことに・・・。

いつ生まれたかわかりませんが、

多分、

今は15歳ぐらいだと思います。

どんな生活をしているのやら、

とにかく不憫で不憫でなりません。

一刻も早く娘とともに救出したい・・・」

 筆者はこの時、

嘉代子さんにかける言葉を失った。

自身の浅薄な人生経験では、

どうすることもできない巨大な壁に押しつぶされるように、

沈黙するしかなかった。

(第5章日本赤軍よど号グループおわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 22

しかも、

この手紙が記された背景について、

「当初共同で生活していたはずのM氏に関する記述が、

恵子さんやI さんと比べて限定されていることから推し量ると、

執筆時にM氏は共同生活をしておらず、

どこか別の場所へ移されている可能性が極めて高い。

北朝鮮では、

行動の自由など一切認められていないので、

一緒にいないということは、

当局の意向であるとしか考えられず、

それが実に恐ろしいことであることは

Iさんと恵子さんも分かっていたはずである。

その証左として、

極めて限られた外出時間内に、

それも監視下で旅行者(ポーランド人)に手紙を託す行為は

極めて危険であるにもかかわらず、

あえてその危険を冒す理由は、

いつ自分たちにMさんと同じ事態が訪れるかもわからないという、

緊迫した状況があったに違いない」と、

この手紙が自分たち、

すなわち恵子さんとIさんの生存の証としての

「愛する人々への悲痛な叫び」

であろうことが、

高沢氏から両親に告げられたのである。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 21

てっきり熊本のMさんだと思い込んでいた乳児は、

Iさんと恵子さんの間に生まれた子ども、

すなわち孫であるというのである。

さらに、

Iさんからの手紙にある

「・・・特に衣服面と教育・教養面での本が極端に少なく、

3人共に困って居ります。・・・」の

記述について、

嘉代子さんは、

李恩恵(リ・ウネ)・・田口八重子さんなどの事案から推測して、

工作員の教育等に従事させられている関係だろうと思っていたが、

これはIさんと恵子さんが厳しい環境下でも、

いつか帰国する日を考えて

必死にわが子を育てているためであろうと、

高沢氏はみているという。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 20

平成5年初旬、

遠藤忠夫が「必ず本人(恵子さん)に渡す」と言って、

家族の寄せ書きを持って姿を消し3年余月が経過していた。

話がそのことに及ぶと、何と高沢氏が彼と面識があると言う。

しかも、

平壌を訪問する際、

彼から「故・田宮高麿(よど号グループのリーダー)に渡して欲しい」と

手紙を託されたと言うのである。

高沢氏はよもやそれが、恵子さんの家族の手紙だとは知らず、

約束通り田宮に手渡したそうである。

 高沢氏は、

おそらく北海道のIさんから入手したであろう鮮明な写真を3枚持参していた。

それは昭和63年(1988年)9月に、

有本夫妻が手紙と一緒に受け取った写真のコピーと同じものであった。

次の瞬間、夫妻は耳を疑った。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 17

平成8年3月、

有本夫妻はテレビ朝日「サンデープロジェクト」

の石高健次プロデューサー(当時)と同行して

外務省へ赴いた。

石高氏とは「闇の波涛から」と題する

大阪の原ただあきさん拉致事件や

横田めぐみさん事件を

詳細に伝える報道特別番組を

制作した人物である。

 しばらくすると、

石高氏は高沢氏を伴って

有本さん宅を訪問したいと申し入れてきた。

既に両者とも面識があり、

今回は自宅で会うことになった。

しかし、

この会談に高沢氏が持参した情報は、

家族にとって

この上なく残酷なものだったのである。

(1訪問者おわり、以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 16

高沢氏の来訪が

有本さんの立場を承知した上でのものであることは、

一昨年来、

明弘さんが知人等に嘆願意見を記して

各報道機関へ送付してもらっていたチラシを

彼が持参していたことから明らかだった。

彼が手にしていたのは、

取引き先のフォークリフトのオペをしている人が、

毎日新聞社に送付していたものだった。

 そこで、

さんは地元選出の自民党(当時、現在は民主党)

の石井一元自治大臣に対し提出した質問状の写しなどを

手渡して事情を説明したという。

明弘さんは「もしかしたら、

家族の立場へ方針を転換するために、

彼は私たちに会いに来たのかもしれない。」

と当時の高沢氏の心中を理解するようになった。

彼は、

よど号メンバーたちへのインタビューを

綴った自らの著書を手渡して帰途についた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

平成7年早春、

同年1月に県下を襲った大震災の傷跡が生々しい中、

新たな珍客が来神した。

高沢皓司(こうじ)と名乗る中年の男性は、

「確かな筋の話として恵子さんは北朝鮮にいる。

是非、お話ししたいことがある・・・」

と訪問の理由を電話で告げてきた。

 嘉代子さんは、

得体の知れない人を家に上げることを拒み、

明弘さんが「外で会うなら」と面会を承諾したという。

とはいえ、

震災により喫茶店など全く営業していない。

来訪者を連れて市内を歩き回ったすえ、

近所で1件だけ店を開けていた「焼肉屋」に腰を落ち着けた頃には、

もうすっかり日が暮れていた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

 「北海道のIさんからの手紙」は、

既に様々な場面で公開されているが、

その手紙には有本恵子さんの旅行保険の写しと3枚の写真が同封されていた。

2枚は北海道のIさんと恵子さんのもの、

もう1枚は生後間もない乳児らしきものであった。

 「文面を素直に読む限り、乳児は熊本のMさんかもしれません。

でも、何でまた自身の乳児期の写真を携帯していたのか?」。

昭和63年(1988年)9月、

失踪から5年ぶりにもたらされた娘の音信に、

母嘉代子さんは、

「非常に不思議な感覚を覚えた」と当時を振り返る。

これらの写真はIさんのお母さんがコピーしたもので、

はっきりと判別できるものではなかった。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

5月4日(平成13年)、

「金正日の長男密入国か」の朝刊見出しに驚愕したのもつかの間、

金正男は機上の人となって行方すらつかめていない。

今ここでは政府の対応を批判しない。

その弱腰を、

そのアホ面を、

批判することに慣れていく自分自身に戦慄さえ覚えるからである。

 

 5月15日(平成13年)には、

「拉致解決の好機を逃した金正男退去に怒る緊急集会」が東京で開催された。

また、

いみじくも同じ日、

極めて特異な経歴を有する3人の日本人が成田に降り立った。

それは、

田宮高麿(故人)をリーダーとする

日本赤軍よど号グループの子どもたちである。

 よど号グループは、

拉致事件に深く関与している。

否、実行犯の可能性が極めて高い

本章からは、彼らと事件の関わり、

そして、

グロテスクな独裁者の狂気、

すなわち拉致の目的について探っていく。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 14

明弘さんの質問書に対するNHK社会部長からの返答は、

極めて簡素なものであった。

その返答以来、

NHKは一切「無視」という態度にでるのである。

それは現在に至るまで変わってはいない。

平成3年1月16日の「幻の記者会見」を、

何故「幻の・・・」に終わらせる必要があったのか?

一体なにを守ろうとしたのか?

あるいは、何の露見を恐れたのか?

 

 有本さんの家族や私たち「救う会」などの支援者は

大きな関心を持ちながら、

一民間人には知るすべもない。

NHKの田村・山本・崎本の3記者と

、ウニタ書房の遠藤忠夫も、

大きな動きの中で一脇役を演じたに過ぎないのかもしれない。

しかしながら

、一連の「謀略」に関して彼らの演じた役割は、

極めて重大であり、

かつ悪質である。

(第4章許されざるNHKの罪おわり。以下次章につづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 13

(明弘さん)「警察から恵子の情報を受け取った。

週間文春も恵子の失踪に関わる詳しい記事をスクープしている。

もはや3年前とは明らかに事情が異なるのだから、

再度記者会見を開きたい」。

(崎本記者)

「一度報道したものはニュース性がないので、協力できませんな」。

(明弘さん)「どないしたら、ええんや」。

(崎本記者)「記者会見がしたいなら、用件をまとめたものを、ご自身で各社に流されたらいかがですか?」

 NHKは3年前、

自ら幹事会社に名乗り出て、

記者会見を設定しておきながら、

直前になって前述の「遠藤忠夫」を引き合わせて、

これを「幻の・・・」に終わらせる「茶番劇」を演出した。

それが今度は手のひらを返して、

「勝手にどうぞ」と開き直る。

明弘さんは崎本記者の真意について質問書を同局に送付した。

後日(平成6年12月12日付)NHK社会部長・井出上伸一氏より質問書に対する返答が届いた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 12

明弘さんはこの記事のコピーを基にしたチラシを作成し、

各報道機関へ送付、協力を要請した。

しかし、

各社全く取り合ってくれない。

そこで、

同窓会などで知人に配布し、

嘆願意見を記入して送付してもらうように依頼した。

かなりの人が、明弘さんの心からの願いを聞き入れ協力したという。

しかし、

マスコミからは無しのつぶてだった。

 「どないなっとんや!」。

業を煮やした明弘さんは、

配達証明つき郵便で再度マスコミ各社へチラシを郵送するとともに、

NHK神戸支局へ電話をかけた。

3年前(1991年)1月16日の「幻の記者会見」で

神戸から有本さんに同行した田村記者を呼び出したが、既に転勤していた。4

年前のマスコミ各社による突然の集中取材以来面識がある山本記者も転勤していた。

しかし、

「幻の記者会見」の折、東京から派遣されていた崎本記者が、神戸に赴任していた。

電話には彼が応対に出た。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 8

平成6年(1994年)3月31日発行の「週間文春」が

「日本人留学生失踪事件、平壌に連行したのはよど号の妻たちだった」と題するスクープを掲載した。

それによると、

掲載の写真は国際手配中の大物北朝鮮工作員キム・ユーチュルを、

現地公安当局がコペンハーゲンのカストロップ国際空港で撮影したもので、

同人物と行動を共にしていたと思われる恵子さんが一緒に写ったものらしい。

さらに撮影時点で恵子さんは、

北朝鮮製の偽造パスポートを使っていたことも判明しているという。

キム・ユーチュルの素性については同記事に詳しい。

そして、

恵子さんの拉致に日本赤軍よど号グループの妻たちが、

深く関与しているという衝撃的事実を報道している。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 5

 平成5年(1993年)5月23日、

兵庫県警外事課の捜査官が有本家にやって来た。

彼は懐から1枚の写真を取り出し、

「娘さんに間違いありませんね」と両親に確認した。

そこには確かに恵子さんが写っていた。

「何か駅の待合室のような感じでした・・・」と母・嘉代子さんは写真の記憶を語る。

 恵子さんからの最後の音信は昭和58年(1983年)の10月の手紙だった。

 「一体どこの写真ですか?」

 とたずねても、

捜査官は「確かな証拠です」とは言うものの

明言を避けたという。

 この日、

有本家で1通の調書が作られ、

そこに父・明弘さんがサインした。

 愛娘恵子さんの失踪から、

実に11年の歳月が経過していた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 4

遠藤はこの一件も含め3回有本夫妻に接触した。

最後に会ったのは平成5年(1993年)初旬だった。

ゼネコン汚職が発覚し、金丸信が政治生命を失いつつある頃だった。

その段階に至り、

もはや遠藤の有本夫妻に対する説得力の根拠は全く瓦解していた。

「金丸訪朝団の実現に尽力し、北朝鮮との太いパイプを得た」という、

当の頼りとする金丸が死に体同然であることは自明だったからである。その点を察してか、

この時の遠藤は終始、神妙な様子であった。

「本人(有本恵子さん)に渡すので、家族で手紙を書いて欲しい」と申し入れてきた。

たとえ、

わずかでも可能性があるならと

有本家の全員が、

限られたスペースに寄せ書きのように想いを綴った。

 この手紙は結局、

恵子さんの手元に届くことはなかった。しかし、

ピョンヤンまでは運ばれていた。

この手紙は、思いもよらない人物が所持していたが、

有本夫妻がそれを知るのは2年後のことである。(1謀略の行方おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 3

ここで、また奇妙なことが起こった。

明弘さんが憤激おさまらぬまま神戸に戻った1週間後、

唐突に遠藤忠夫から電話が入り、

わざわざ神戸までやって来るというのである。

来神した遠藤は言う。

「あの話(平成3年1月16日の記者会見と引き換えに、秘密裏に有本恵子さんたちを救出するという話)は、まだ生きているから黙っていて欲しい。金日成の主治医につながるルートがあるから安心して欲しい・・・」と。

しかし、明弘さんは大いにいぶかしんだ。

遠藤は平成3年1月の時点で「1~2ヶ月の辛抱」と言っていたが、

既にその期間は大きく過ぎている。

そして、

何よりも遠藤がどうして外務省へ赴いたことを知っているのか???(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 2

しかし、

平成3年(1991年)5月には、

大韓航空機爆破事件(1987年)の実行犯キム・ヒョンヒの教育係であった

「李恩恵(リ・ウネ)」が埼玉県の田口八重子さんであることが特定されたと、

警察から発表され、

平成4年(1992年)11月の第8回交渉で北朝鮮側が実務者協議を退席し、

同交渉は決裂した。

父有本明弘さんはこれを受けて単身外務省に赴き、

北東アジア課の山本課長補佐に対し、

「日朝交渉において、リ・ウネ(田口八重子さん)の一件だけを持ち出すとは一体どういうことか。

私の娘や、北海道のIさん

、熊本のMさんの事件解決はどうなるのか。

外務省は全員の解放を要求すべきではないのか」と詰め寄った。

山本課長補佐は、「心中お察しします・・・」と、

まるで暖簾に腕押しだったという。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

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