9月 15

 「北海道のIさんからの手紙」は、

既に様々な場面で公開されているが、

その手紙には有本恵子さんの旅行保険の写しと3枚の写真が同封されていた。

2枚は北海道のIさんと恵子さんのもの、

もう1枚は生後間もない乳児らしきものであった。

 「文面を素直に読む限り、乳児は熊本のMさんかもしれません。

でも、何でまた自身の乳児期の写真を携帯していたのか?」。

昭和63年(1988年)9月、

失踪から5年ぶりにもたらされた娘の音信に、

母嘉代子さんは、

「非常に不思議な感覚を覚えた」と当時を振り返る。

これらの写真はIさんのお母さんがコピーしたもので、

はっきりと判別できるものではなかった。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

5月4日(平成13年)、

「金正日の長男密入国か」の朝刊見出しに驚愕したのもつかの間、

金正男は機上の人となって行方すらつかめていない。

今ここでは政府の対応を批判しない。

その弱腰を、

そのアホ面を、

批判することに慣れていく自分自身に戦慄さえ覚えるからである。

 

 5月15日(平成13年)には、

「拉致解決の好機を逃した金正男退去に怒る緊急集会」が東京で開催された。

また、

いみじくも同じ日、

極めて特異な経歴を有する3人の日本人が成田に降り立った。

それは、

田宮高麿(故人)をリーダーとする

日本赤軍よど号グループの子どもたちである。

 よど号グループは、

拉致事件に深く関与している。

否、実行犯の可能性が極めて高い

本章からは、彼らと事件の関わり、

そして、

グロテスクな独裁者の狂気、

すなわち拉致の目的について探っていく。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 14

明弘さんの質問書に対するNHK社会部長からの返答は、

極めて簡素なものであった。

その返答以来、

NHKは一切「無視」という態度にでるのである。

それは現在に至るまで変わってはいない。

平成3年1月16日の「幻の記者会見」を、

何故「幻の・・・」に終わらせる必要があったのか?

一体なにを守ろうとしたのか?

あるいは、何の露見を恐れたのか?

 

 有本さんの家族や私たち「救う会」などの支援者は

大きな関心を持ちながら、

一民間人には知るすべもない。

NHKの田村・山本・崎本の3記者と

、ウニタ書房の遠藤忠夫も、

大きな動きの中で一脇役を演じたに過ぎないのかもしれない。

しかしながら

、一連の「謀略」に関して彼らの演じた役割は、

極めて重大であり、

かつ悪質である。

(第4章許されざるNHKの罪おわり。以下次章につづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 13

(明弘さん)「警察から恵子の情報を受け取った。

週間文春も恵子の失踪に関わる詳しい記事をスクープしている。

もはや3年前とは明らかに事情が異なるのだから、

再度記者会見を開きたい」。

(崎本記者)

「一度報道したものはニュース性がないので、協力できませんな」。

(明弘さん)「どないしたら、ええんや」。

(崎本記者)「記者会見がしたいなら、用件をまとめたものを、ご自身で各社に流されたらいかがですか?」

 NHKは3年前、

自ら幹事会社に名乗り出て、

記者会見を設定しておきながら、

直前になって前述の「遠藤忠夫」を引き合わせて、

これを「幻の・・・」に終わらせる「茶番劇」を演出した。

それが今度は手のひらを返して、

「勝手にどうぞ」と開き直る。

明弘さんは崎本記者の真意について質問書を同局に送付した。

後日(平成6年12月12日付)NHK社会部長・井出上伸一氏より質問書に対する返答が届いた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 12

明弘さんはこの記事のコピーを基にしたチラシを作成し、

各報道機関へ送付、協力を要請した。

しかし、

各社全く取り合ってくれない。

そこで、

同窓会などで知人に配布し、

嘆願意見を記入して送付してもらうように依頼した。

かなりの人が、明弘さんの心からの願いを聞き入れ協力したという。

しかし、

マスコミからは無しのつぶてだった。

 「どないなっとんや!」。

業を煮やした明弘さんは、

配達証明つき郵便で再度マスコミ各社へチラシを郵送するとともに、

NHK神戸支局へ電話をかけた。

3年前(1991年)1月16日の「幻の記者会見」で

神戸から有本さんに同行した田村記者を呼び出したが、既に転勤していた。4

年前のマスコミ各社による突然の集中取材以来面識がある山本記者も転勤していた。

しかし、

「幻の記者会見」の折、東京から派遣されていた崎本記者が、神戸に赴任していた。

電話には彼が応対に出た。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 8

平成6年(1994年)3月31日発行の「週間文春」が

「日本人留学生失踪事件、平壌に連行したのはよど号の妻たちだった」と題するスクープを掲載した。

それによると、

掲載の写真は国際手配中の大物北朝鮮工作員キム・ユーチュルを、

現地公安当局がコペンハーゲンのカストロップ国際空港で撮影したもので、

同人物と行動を共にしていたと思われる恵子さんが一緒に写ったものらしい。

さらに撮影時点で恵子さんは、

北朝鮮製の偽造パスポートを使っていたことも判明しているという。

キム・ユーチュルの素性については同記事に詳しい。

そして、

恵子さんの拉致に日本赤軍よど号グループの妻たちが、

深く関与しているという衝撃的事実を報道している。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 5

 平成5年(1993年)5月23日、

兵庫県警外事課の捜査官が有本家にやって来た。

彼は懐から1枚の写真を取り出し、

「娘さんに間違いありませんね」と両親に確認した。

そこには確かに恵子さんが写っていた。

「何か駅の待合室のような感じでした・・・」と母・嘉代子さんは写真の記憶を語る。

 恵子さんからの最後の音信は昭和58年(1983年)の10月の手紙だった。

 「一体どこの写真ですか?」

 とたずねても、

捜査官は「確かな証拠です」とは言うものの

明言を避けたという。

 この日、

有本家で1通の調書が作られ、

そこに父・明弘さんがサインした。

 愛娘恵子さんの失踪から、

実に11年の歳月が経過していた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 4

「拉致事件」というファクターを通して世間を見れば、

言動に重大な結果責任が付随する立場の人々、

「政治家」「官僚」「マスコミ」等の中には、

大きな道義的責任を負うべき人々が大勢居る。

彼らの犯した罪は、

それぞれが属する社会や背景によって様々に分別できるが、

共通しているものは「国益への背任」であろう。

有本さんご夫妻は、愛娘恵子さんと引き裂かれて以来19年<当時>、

同時期に殆どの国民が現在進行形で「危機」を実感することも、

ましてや自らが生まれた社会を疑うなど考えも及ばずに生活していた中で、

その罪を実害として被った稀有な経験をされた。

ご夫妻が耐えがたい苦痛と引き換えに経験されたそれは、

抽象的で捉えどころのない「戦後の歪み」を、叙事的に描き出している。

私たちは未だその歪の真っ只中に在る事を忘れてはならない。(つづく)

9月 4

遠藤はこの一件も含め3回有本夫妻に接触した。

最後に会ったのは平成5年(1993年)初旬だった。

ゼネコン汚職が発覚し、金丸信が政治生命を失いつつある頃だった。

その段階に至り、

もはや遠藤の有本夫妻に対する説得力の根拠は全く瓦解していた。

「金丸訪朝団の実現に尽力し、北朝鮮との太いパイプを得た」という、

当の頼りとする金丸が死に体同然であることは自明だったからである。その点を察してか、

この時の遠藤は終始、神妙な様子であった。

「本人(有本恵子さん)に渡すので、家族で手紙を書いて欲しい」と申し入れてきた。

たとえ、

わずかでも可能性があるならと

有本家の全員が、

限られたスペースに寄せ書きのように想いを綴った。

 この手紙は結局、

恵子さんの手元に届くことはなかった。しかし、

ピョンヤンまでは運ばれていた。

この手紙は、思いもよらない人物が所持していたが、

有本夫妻がそれを知るのは2年後のことである。(1謀略の行方おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 3

ここで、また奇妙なことが起こった。

明弘さんが憤激おさまらぬまま神戸に戻った1週間後、

唐突に遠藤忠夫から電話が入り、

わざわざ神戸までやって来るというのである。

来神した遠藤は言う。

「あの話(平成3年1月16日の記者会見と引き換えに、秘密裏に有本恵子さんたちを救出するという話)は、まだ生きているから黙っていて欲しい。金日成の主治医につながるルートがあるから安心して欲しい・・・」と。

しかし、明弘さんは大いにいぶかしんだ。

遠藤は平成3年1月の時点で「1~2ヶ月の辛抱」と言っていたが、

既にその期間は大きく過ぎている。

そして、

何よりも遠藤がどうして外務省へ赴いたことを知っているのか???(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 2

しかし、

平成3年(1991年)5月には、

大韓航空機爆破事件(1987年)の実行犯キム・ヒョンヒの教育係であった

「李恩恵(リ・ウネ)」が埼玉県の田口八重子さんであることが特定されたと、

警察から発表され、

平成4年(1992年)11月の第8回交渉で北朝鮮側が実務者協議を退席し、

同交渉は決裂した。

父有本明弘さんはこれを受けて単身外務省に赴き、

北東アジア課の山本課長補佐に対し、

「日朝交渉において、リ・ウネ(田口八重子さん)の一件だけを持ち出すとは一体どういうことか。

私の娘や、北海道のIさん

、熊本のMさんの事件解決はどうなるのか。

外務省は全員の解放を要求すべきではないのか」と詰め寄った。

山本課長補佐は、「心中お察しします・・・」と、

まるで暖簾に腕押しだったという。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 1

平成3年(1991年)1月16日、

有本さん・Iさん(北海道)の2家族は、

自分たちの子どもが北朝鮮で自由を奪われていることを公表し、

広く世論に訴えて国に早期解決を促すべく記者会見を開くに至った。

しかし、

記者会見の幹事を引き受けたNHKの記者が直前になって、

遠藤忠夫と名乗る「金日成の主治医に通じる太いパイプを有している・・・」という

人物を両家族に引き合わせ、

彼の強い進言により同記者会見は失敗したのであった。

 平成2年(1990年)9月、

自民党・社会党訪朝団(金丸・田辺)は朝鮮労働党との間で、

「日朝三党宣言」に調印し、翌1月からは「日朝国交正常化交渉」が始まっていた。

NHKによる

「謀略(救う会・兵庫(筆者の長瀬猛が代表)は本件の不可解なNHKおよび遠藤忠夫の行為を、”謀略”であると推定します。)」は、

まさにこの最中に発生した。(つづく)

8月 31

ウニタ書房の遠藤忠夫は、昨年(1990年)末かなりの頻度でテレビに登場している。

ご記憶の方も多いと思うが、

”日本赤軍のリーダー重信房子の逮捕”と”よど号の妻子の帰国近し”に関するニュースで

「日本赤軍について詳しい・・・」とか

「よど号メンバーの家族を支援している・・・」などの

キャッチフレーズで得意満面、評論家ぶっていたあの人物である。

 なお、事情通によると、ウニタ書房とは新左翼過激派の出版物等を、

グループに関係なく幅広く取り扱う書店として有名な店であり、

それらのシンパや活動家が盛んに出入りしているという(当時)。

 無論、当時、家族が遠藤の素顔など知るよしもなかった。

「今想えば謀られた」と有本夫妻は語る。遠藤は家族に、

永久に朗報をもたらすことはなかった。

(第3章幻の記者会見おわり。以下、次章につづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 30

思いもよらない申し入れに、有本さん・Iさんの2家族は混乱した。

「自民党の実力者でもある金丸氏ならもしかすると・・・」。

明弘さんは当時を振返り、

苦虫を噛み潰す様にこの申し入れを受け入れたことを語った。

遠藤を交えた会談は程なく終わり、家族はどうしたら良いのか分からないまま、

会見場へと向かったのである。

 実名は明かせないこと、

写真およびテレビカメラの撮影はできないことが、

集まった報道関係者に告げられると、にわかに場内は険悪な空気に包まれ騒然としたという。

「(ペルシャ湾から目が離せない)今日のこの時間をどうしてくれるんや」、

「圧力がかかったのか」、

「ふざけるな!」・・・記者たちの怒号が有本夫妻にも突き刺さった。

一切想定していなかった事態に、

「何も話せなかった」と有本嘉代子さんは当時を語る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 28

予定通り外務省への要望書提出を終え、2人の記者は、

前夜有本明弘さんが面会を承諾したウニタ書房の遠藤忠夫と名乗る人物を引き合わせた。

既に会場に集まっているマスコミを待たせて、遠藤、NHKの記者2名と両家族の会談が始まった。

 「私に任せて欲しい。何とか救出するから実名は伏せて下さい」。

遠藤は開口一番、事実上の会見中止を強く要請した。

そして、

「われわれは1年以上にわたり金丸氏(故人、当時自民党代議士)の訪朝実現のために、

様々な労力を費やしてきました。

今、警察からこのような話が明らかになれば、

何もかもぶち壊しになってしまう。

くれぐれも記者会見では住所・氏名を言わないで下さい。

その代わり、われわれには金日成の主治医につながる確かなルートがあります。

1~2ヶ月待っていただければ、必ず良い返事を持ってきます。」と、

さらに強く迫ったのであった。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 25

平成3年(1991年)1月16日、

記者会見が実現するはずだった日である。

当時のマスコミは連日ペルシャ湾に集結した多国籍軍と、

クウェートに侵攻したイラク軍の動向を連日トップで報じていた。

この日は湾岸戦争勃発前夜だったのである。

 記者会見を司る幹事会社NHKは、

神戸から1月7日の取材で有本夫妻と面識がある田村記者と、

東京の崎本記者を派遣して、

2家族による(有本さん・I さんの家族が参加、熊本のMさんの家族は不参加)外務省への救済要望書提出から、

都内での記者会見に至る全行程を取り仕切っていた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 21

この時点まで、記者会見の構想を3家族が持っていた訳ではない。

急遽決まったこの事を当日同席していたNHKの記者に伝えたところ、

スムーズに進展、同社が幹事会社となり記者会見がセットされ、

外務省の窓口も北東アジア課の今井課長が対応することとなった。

 1月15日深夜、NHK神戸支局の山本記者から有本明弘さんに電話連絡が入る。

「明日(記者会見当日)東京で会って欲しい人がいます。いかがでしょうか?」。

有本さんは、それがどんな人物か、

皆目見当もつかなかったが、

全てを託している幹事会社からの申し出でもあり承諾することにしたのであった。

(マスコミの一斉報道おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 20

1月7日(1991年)の一斉報道により家族は決断を迫られる。

「意に反したとは言え事ここに至り、事件の内容が公となった以上、広く世間に訴えて早期解決を国に促す方が良いのでは・・・」。

そして、Iさん(北海道)・Mさん(熊本)の2家族は1月15日、神戸の有本さん親類宅に集った後、翌16日上京。

3家族そろって外務省への「救出要望書」提出を決行する運びとなった。

昨年来、有本さんへの取材を続けていたマスコミ各社へもこの事は伝えられた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 17

 1月9日付け北海道新聞は「平壌の札幌男性(Iさん)名義旅券、よど号柴田被告が所持」と報じている。

赤軍メンバーの柴田康弘は昭和45年(1970年)4月のよど号ハイジャック事件で北朝鮮に渡った後、

密入国していたが昭和63年(1988年)に兵庫県内で逮捕される。

その所持品にあった偽造パスポートは、顔写真を柴田のものに張り替えただけのIさんのパスポートだったのである。

 有本夫妻の陳情を再三受け、

「危害が及ぶ可能性」まで示唆しておきながら、赤軍メンバーがIさんのパスポートを所持していた事実を把握していて、

なお「事実であれば・・・」と語る外務省北東アジア課の何と奥ゆかしく上品なことか。

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 17

「80年代、欧州で男女3人不明、北朝鮮・平壌で生活(毎日新聞)」、

「コペンハーゲンにアジト?北朝鮮、三邦人拉致か(産経新聞)」、

平成3年(1991年)の1月7日の朝刊である。

”拉致事件”の中で北海道のIさん、

熊本のMさん、そして有本恵子さんの3人が海外から拉致された事案を報じる最初の新聞報道である。

 有本さんに頂いたそのコピーに、外務省北東アジア課の談話が掲載されている。

「一部の家族の方からお話を伺っており、、事実であればお気の毒な話です。

今後とも政府としては何ができるか考えていきます。(毎日新聞)」とある。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 17

取材は年を越えて正月にも及んだ。そして1月6日の夜、NHK神戸支局より電話が入る。

 「明日(1月7日)の毎日新聞朝刊に、恵子さんの記事が大きく取り上げられる事をご存知ですか?」電話を受けた嘉代子さんは、

昨年暮れからマスコミ各社から一方的な取材を受けた事などを伝えた。

すると、今からすぐに取材に行きたいと申し入れて来たのである。

とにかく夜間故、当日の取材は断り、翌日であればという事で承諾した。

 家族は一連のマスコミの動きをいぶかしんだ。なぜなら、

2年余月の辛い”沈黙”は、娘の無事を案じればこそ、

外務省などの”口止め”を受け入れたのである。

マスコミが本来知り得ない事実(恵子さんが北朝鮮に、2名の日本人と共に生存している事等)を、

なぜ外務省や警察がリークしたのか?なぜマスコミはこの時期を選んだのか?

 1月7日早朝、NHK神戸支局から山本・田村の2名の記者がやって来たが、

数多の来訪者と同様にその答えを携えてはいなかった。

(3晴天のヘキレキおわり。第3章つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 15

平成2年(1990年)12月中旬「週間文春」の記者が有本家に突然やって来た。

「外務省から情報を聴きました。お話を聴かせてください」と言う彼に、

その外務省から口止めされている両親は困惑した。

 更に奇怪な事に、暮れも押し迫った頃マスコミ各社が大挙有本家に押しかけた。

 「もう誰がどこの人やら、引っ切り無しでした。

共同通信の方がおられたぐらいしか覚えていません。

それ程混乱していたのです。」

嘉代子さんは対応に追われた当時を振返る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 13

 韓国当局に逮捕された実行犯金賢姫(キムヒョンヒ)により、

工作員教育課程での、

日本人教育係李恩恵(リウネ)の存在が明らかにされ、

日本社会に大きな衝撃が走ったのは昭和63年(1988年)1月であった。

 実は同年9月、母が初めての陳情に警察庁を訪れた際対応した人物こそ、

キムヒョンヒを直接事情聴取しリウネが田口八重子さんである事を特定した捜査官だった。

この事を後年になって警察関係者が明らかにした。

同氏がいつ特定に至ったのかは不明であるが、

マスコミを通じて世間に公表されたものには平成3年(1991年)5月とされている。

半島情勢は風雲急を告げ、「拉致事件」も、

”疑惑”として取りざたされるようになっていた。

(2大韓航空機爆破事件おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 11

 昭和63年の前年、

1987年11月29日ビルマ(現ミャンマー)の沖インド洋上のアンダマン海で大韓航空858便は失踪する。

「大韓航空機爆破事件」である。

 ここで今一度時系列上に有本恵子さんの事件と、

両親の苦悩の日々を整理してみよう。

恵子さんの渡航が昭和57年(1982年)4月、

翌58年(1983年)6月には留学先のロンドンを離れ、

家族との最後の連絡は同年10月デンマークのコペンハーゲンからの手紙だった。

北海道のIさんからの生存情報がもたらされたのが、

失踪から5年後の63年(1988年)9月である。

 「大韓航空機爆破事件」は、

家族が恵子さんの生存を知る前年、失踪から4年目に起きた。

「まさかこの飛行機に乗っているなどという事はないだろう」と思ったが胸騒ぎがしたと母は当時を振り返る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

7月 12

 警察庁では「警察ではどうする事もできない」との返答しか得られず、

外務省では「国交がないので無理です」と門前払い。

同行しているR氏も「残されたルートは赤十字がありますが・・・」と頭を抱えた。

年内には両親そろって再度上京した。

警察庁外事課の担当者は「どうする事もできないが、

せめて外務省北東アジア課を紹介します」と外務省内へ二人を伴い、

山本課長補佐を紹介した。

しかし彼の口らは「今動きますとお子さんに危害が及ぶので、

絶対に動かないで下さい。」と、

口止め以外何ら新しい情報は聴かされなかった。

 

 地元選出の社会党衆議院議員川上民夫氏は、

「とにかく真意は(党中央に)伝えるが、難しい。

ルートは確かにあるが、

(北朝鮮に)話をした後の(国内の)体制が整わないと不可能だ」と

二人に語っている。両親に選択の余地はなかった。

考えうる最善の方策は、沈黙を守る事だった。

昭和63(1988)年、筆者が大学推薦試験に合格した年である。

世の中は後にバブルと呼ばれる好景気の真っ只中、

高級外車に彼女を乗せた先輩に憧れていた頃である。

有本さん家族が強いられた”沈黙”がいかに残酷であったか、

当時の世相を思い浮かべれば、それは容易に想像できる。

(1沈黙の始まりおわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

7月 12

 昭和63(1988)年9月、

北海道のIさんから受けた「ピョンヤンでの娘の存在」の一報から数日後

、両親は当時社会党の衆議院議員・土井たか子氏の事務所を訪問する。

恵子さんの事件で、

最も早く当事者の家族情報を受けた政治家は彼女である。

 当日は秘書の保田秀雄氏が対応した。

「社会党が持っておられるパイプを活かして、

何とか娘の帰国に尽力して頂きたい」と懇願するも、

「本人(土井たか子)に伝えます」と素っ気無い。

以後音信もなく事実上の無視であった。

 「やはり与党の実力者の耳に、直接訴えなければ・・・」

当初竹下登内閣総理大臣への直訴を企画したが何の伝手もなく、

議員会館への問い合わせにより、

次期総理と目されていた

故・安倍晋太郎自民党幹事長(当時)の事務所の紹介を受ける。

早速連絡すると「まずは来て下さい」と訪問を促され、

母嘉代子さんは単身上京、事務所を訪れる。

対応した秘書のR氏は「非常に難しい問題だが、

まずは当たってみましょう」と言い、

その日の内に嘉代子さんを警察庁と外務省へ伴った。

尚、後日R氏は「現在(北朝鮮から)莫大な金を要求されています」

と”難しい問題”とした原因として、

社会党が朝鮮労働党幹部党員を招聘した折、

帰国を前にして「国家賠償はどうしてくれるのか」と、

彼らが捨て台詞を残したという事案を明らかにした。

13年前(平成13年当時)の事である。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

7月 6

 警察庁では「警察ではどうする事もできない」との返答しか得られず、

外務省では「国交がないので無理です」と門前払い。

同行しているR氏も

「残されたルートは赤十字がありますが・・・」と頭を抱えた。

年内には両親そろって再度上京した。

警察庁外事課の担当者は「どうする事もできないが、

せめて外務省北東アジア課を紹介します」と外務省内へ二人を伴い、

山本課長補佐を紹介した。

しかし彼の口らは「今動きますとお子さんに危害が及ぶので、

絶対に動かないで下さい。」と、

口止め以外何ら新しい情報は聴かされなかった。

 地元選出の社会党衆議院議員川上民夫氏は、

「とにかく真意は(党中央に)伝えるが、難しい。

ルートは確かにあるが、

(北朝鮮に)話をした後の(国内の)体制が整わないと不可能だ」と

二人に語っている。

両親に選択の余地はなかった。

考えうる最善の方策は、沈黙を守る事だった。

昭和63(1988)年、筆者が大学推薦試験に合格した年である。

世の中は後にバブルと呼ばれる好景気の真っ只中、

高級外車に彼女を乗せた先輩に憧れていた頃である。

有本さん家族が強いられた”沈黙”がいかに残酷であったか、

当時の世相を思い浮かべれば、それは容易に想像できる。(つづく)

7月 5

 昭和63(1988)年9月、

北海道のIさんから受けた「ピョンヤンでの娘の存在」の一報から数日後、

両親は当時社会党の衆議院議員・土井たか子氏の事務所を訪問する。

恵子さんの事件で、

最も早く当事者の家族情報を受けた政治家は彼女である。

 当日は秘書の保田秀雄氏が対応した。

「社会党が持っておられるパイプを活かして、

何とか娘の帰国に尽力して頂きたい」と懇願するも、

「本人(土井たか子)に伝えます」と素っ気無い。

以後音信もなく事実上の無視であった。

 「やはり与党の実力者の耳に、直接訴えなければ・・・」

当初竹下登内閣総理大臣への直訴を企画したが何の伝手もなく、

議員会館への問い合わせにより、

次期総理と目されていた故・安倍晋太郎自民党幹事長(当時)

の事務所の紹介を受ける。

早速連絡すると「まずは来て下さい」と訪問を促され、

母嘉代子さんは単身上京、事務所を訪れる。

対応した秘書のR氏は「非常に難しい問題だが、

まずは当たってみましょう」と言い、

その日の内に嘉代子さんを警察庁と外務省へ伴った。

尚、後日R氏は「現在(北朝鮮から)莫大な金を要求されています」

と”難しい問題”とした原因として、

社会党が朝鮮労働党幹部党員を招聘した折、

帰国を前にして「国家賠償はどうしてくれるのか」と

、彼らが捨て台詞を残したという事案を明らかにした。

13年前(平成13年当時)の事である。(つづく)

7月 5

平成12年暮れ、「よど号事件の犯人の家族、帰国実現か?」、「重信房子、逮捕!」、

いずれも日本赤軍に関するニュースが世間の耳目を集めた事は記憶に新しい。

 年明け早々の正月2日(平成13年)、神戸市長田区の有本さん宅を訪れた。

父明弘さんは開口一番、

「彼ら(よど号の妻たち)には、

(拉致事件の)真相を明らかにする義務があるのでは」と不快感を顕わにした。

 娘との再会を信じ、

18年目(平成13年当時)を迎えた両親の心にある”怒り”の本質は何なのか?

「拉致事件」の存在こそ世間の知るところとなった昨今だが、

多くは知らされていない。

 ”よど号の妻たち”が語るべき真実はおろか、

関わりすら伝えるマスコミは皆無と言っても過言ではない。

本編(第3回)からいよいよその真実に肉迫する。

7月 1

 母は「とにかく娘は生きている。

何がどうなっているのやらさっぱりわからないけど、

何とかしなくては」と当時の興奮と不安を表現した。

傍らで終始無言だった父も「言うなと言われても、

もう娘の事は頼んでいたので警察へはIさんの事を話した。

すると執拗にその写真と手紙の提供を求められて、

随分困惑した」と警察との生々しいやり取りの一部始終を語り始めた。

事件はこの直後から再び県警外事課が担当する。

 県警は数年後、

北朝鮮の工作員と恵子さんが一緒に写っている写真を

”確たる証拠がある”として両親に提示した。

しかし、警察は恵子さんの生存をいつから知っていたのだろうか?

提示された写真は1983(昭和58)年7月16日にコペンハーゲンの

カストロップ国際空港のロビーで、

現地捜査当局がマークしていた、

キム・ユーチョルなる人物を撮影したものだった。

更に、恵子さんはこのとき偽造旅券を使わされたという事まで確認されている。

 両親は12年前のこの時点で”拉致事件”の存在など知る由もない。

それどころか前出北海道のハマダ氏の

”口止め”にも一点の疑念も抱かなかったという。

娘の身を案じればこそ当然であるが、

娘との再会を信じて迅速に行動した。

そして先ず、

当時社会党の衆議院議員・土井たか子の地元事務所(西宮市今津)へ

赴くのである。。。。。(つづく)

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