12月 24
有本明弘さんが「田原氏発言」への対処を前原外相に要望
icon1 ooya | icon2 有本明弘さんの手記 | icon4 12 24th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

*有本明弘さんが「田原氏発言」への対処を前原外相に要望

先日、拉致被害者・有本恵子さんの父

有本明弘さんが外務省で前原外相に面会。

ジャーナリスト田原総一朗氏が恵子さんらについて

テレビ番組で

「外務省も生きていないことは分かっている」などと発言したことに

同省としても適切に対処するよう要望された。

有本さんの要望に対して外相は

外務省としては恵子さんが生存していることを前提に取り組んでいる旨、確認、返答。

加えて拉致被害者・政府間の情報共有のあり方についても話し合われた模様。

なお、面会中、お父さんの胸には

シッカリと『日の丸ブルーリボン・バッジ』が着用されていた。

(大手マスコミは拉致問題を継続的にもっと大きく取り上げろ!)

当会としても

お父さんの国会議員100人否200人にも匹敵する程の御奮闘に

心から敬意を表するとともに

恵子さんの帰国が実現するその日まで

ご支援申し上げる所存です。

HP読者の皆様にも一層のお力添えを切に願い上げます。

『”拉致”救出支援、国なおし!』

(注)田原氏の発言で精神的苦痛を受けたとして

有本さんは現在、慰謝料を求める民事訴訟を継続中。

2月 20

■小沢一郎氏への根本的疑義■

以上、私の経験を中心に、金丸外交における政治家と外務省の

拉致隠蔽工作とそれに加担したマスコミについて告発してきました。

なぜ、十数年以上前のことを取り上げるのかと考える方もいらっしゃると

思います。

私がこのことを言い続ける意図はただ一つです。当時拉致を

隠蔽しようとした勢力が、今に至るまでもきちんとした反省をせずに、

政界やマスコミなどに残っています。その勢力が、拉致問題解決への

取り組みを背後から妨害しているのではないか、と強く危惧しているからです。

特に、民主党代表の小沢一郎氏(当時)は、自身が自民党幹事長としてかかわった

金丸外交について反省、清算していません。

その後も拉致問題解決のために積極的に動いたこともありません。先(平成19年)の

参院選でも拉致問題は一切取り上げられませんでした。私たち家族を裏切った

石井一氏のような候補を擁立しました。それでは政権を担う資格を

疑われると敢えて言いたいです。(周知の通り今は民主党が政権を担っています!)

拉致被害者は恵子だけではありません。全員救い出さなければなりません。

今現在、政府認定を受けていない被害者も全員救い出さなければなりません。

安倍政権は私が恵子たち拉致被害者の救出に取り組んできた約20年間では、

はじめて国政の最優先課題として拉致問題をすえた政権でした。その政権に

対して、過去に拉致を隠蔽しようとして動いてきた政治家やマスコミの一部が

また攻撃をしかけ、結局、安倍首相は退陣してしまいました。今後そのようなことが

起きないように、過去に彼らがどのような売国外交、売国報道をしてきたのかを

きちんと検証するしかないと痛感しています。この手記がその一助となれば幸いです。(おわり)

2月 19

■無視された手作りビラ■

家族会結成の3年前、ただ一人の支援者もいない中、家族として初めて実名を出して
訴えたのがこのビラです。
このビラを500枚つくりまして、周囲の人たちに配るとともに、マスコミにも送りました。
マスコミへの送付に当たっては、別途次のような手紙をつけました。
「前略 1991年石岡、有本両家族が東京にて記者会見の席を設けて戴き、娘達の事を
お話しする予定のところ、突然何も話さないようにとの要請があり、
お見えになった記者の方には御不満もあったと思いますが、
その時点ではくわしい事は申し上げられませんでした。(略)
北朝鮮に謝罪と償いを明確にした以上、我が国も懸案を先方に明示するのが
国際外交の鉄則と思います。私共の日本政府に対する救済の実現には
マスコミ各社の御支援が無くては出来ないと思って居ります。
私共の声を日本政府及び総理に伝えて戴きたく伏してお願い致します」
90年から91年にかけて取材にきた記者の名刺の住所などにおくり、
警察庁記者クラブに配ってもらいましたが、反応がありませんでした。
そこで、94年12月に配達証明付きで次の社に送りました。
NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、共同通信、時事、
朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞、神戸新聞、週刊文春、週刊新潮
今もその配達証明の書類を持っていますが、こうまでしても
マスコミは拉致問題を無視し続けました。先に引用しましたマスコミ宛て手紙の中の
「北朝鮮に謝罪と償いを明確にした以上、我が国も懸案を先方に明示するのが
国際外交の鉄則と思います」という主張は、今から考えても正しいものだったし、
現在(当時)の我が国政府の立場と完全に一致していると自負しているのですが、
正論が無視されるおかしな状況がマスコミにあったのです。
テレビ・新聞は1997年横田めぐみさんの拉致が明るみになり、家族会が結成されるまで、
拉致問題をまともに取り上げませんでした。
私が実名でそれこそ命がけで訴えた声は、マスコミによって握りつぶされ
国民には伝わりませんでした。
金丸外交は同氏の逮捕で形式上は終わりましたが、その後も、
1995年には野中広務議員、加藤紘一議員らによって拉致を棚上げにしたままの
対北朝鮮米支援が実行されるなど、拉致隠蔽は続き、
それをマスコミは批判せず加担し続けたのです。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 18

■無視された手作りビラ■

手記掲載作業と並行して、1991年の記者会見をアレンジしてくれたNHKの記者に連絡して、

「新しい事実が週間誌に公開されたから再度記者会見をお願いしたい」と依頼しました。

すると記者は「一度公表されたことはニュース性がないので協力できない」と返事をしました。

そのさい、記者は私たちが自前で会見を開く方法を教えてくれました。

家族会結成後の記者会見は、支援団体の救う会などが全部設定しており、記者に頼むことは

ありません。しかし、当時は事情を説明してくれる人も支援者もいませんから、

前回してくれたことをなぜできないのかと強いショックを受けました。

特にNHK記者がE氏を紹介したため前回の会見がぶちこわしになったのだから、

その責任を取る上で2度目の会見を手伝ってくれてもおかしくないはずなのに

との気持ちがありました。

自分たちで会見を開くことは到底無理だと考え、

前掲の週刊文春1994年3月31日号記事と91年1月の新聞記事をコピーし、

欄外に次のような私の訴えと住所名前を記した手作りのビラをつくりました。

「欧州で行方不明になった日本人大学生3名失踪事件

右記事件の真相解明と行方不明者の消息確認を国民世論を以て

総理に

請願するものです。

国交正常化交渉時の正式議題に組み入れて戴きたく

日本政府に請願いたしますにはマスコミ各社の協力がなくては、出来ません。

国民の皆様におかれましては右記の旨

御推察の上 積極的な御支援をお願い致します。

神戸市長田区XXX○丁目○○

有本明弘」

親として渾身の力を込めて記した必死の訴えです。読み返してみると、

今でも涙がこみ上げてきます。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 17

■手記の実名公表とマスコミの黙殺■

先に書いたように1993年に私たちはコペンハーゲンで撮られた恵子の写真を

見せられ確認しました。しかし、警察に口止めされていたので、一部の記者に

非公式に伝えただけで公開しませんでした。その結果、恵子たちの拉致に関する

報道はまったくありませんでした。

1994年3月に週間文春が決定的な報道をしました。3月31日号の

「日本人留学生失踪事件 平壌に連行したのは『よど号』の妻たちだった」という記事です。

そこでは恵子を拉致したのはキム・ユーチュルという北朝鮮工作員であること、

またキムと連携してよど号ハイジャック犯の妻らがヨーロッパ各地を暗躍し、

石岡さん、松木さんを拉致したのも彼女らだという衝撃的な記事で、そこには

コペンハーゲンで撮られたと思われる恵子の顔写真と、石岡さんと一緒に

スペインの動物園で撮影された2人のよど号妻の写真が掲載されていました。

写真という決定的証拠をふまえたスクープでした。

しかし、このような決定的証拠が報じられたのに、テレビや新聞は無視し、

拉致問題は相変わらず取り上げられませんでした。このままでは恵子たちは見殺しに

されてしまうと考えて、私は実名を出して訴える決意をしました。

週間文春1994年5月26日号で「石井自治大臣よ 北朝鮮に連れ去られたわが娘を返せ!」

と題する手記を有本明弘の実名で掲載しました。手記の中で恵子の名前も初めて

公表しました。この内容は、先に書いた金丸訪朝先遣隊としての石井議員とのやりとりを

記したものです。

私は当時の石井議員とのやりとりに関して警察以外には一切話していませんでした。

ところが、週間文春記者がそれを正確に知っていて手記の下書きを書いてきたので

驚きました。誰かがいま(当時)石井議員が治安の責任者である自治大臣・国家公安委員長に

就任したことに対してこの情報をぶつけようとしているのだなと感じ、手記を出すことに

同意したいきさつがあります。この手記にもテレビや新聞などから反応はありませんでした。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 16

■ぶちこわしとなった記者会見■

記事が出てから石岡さん、松木さんの家族と連絡を取って91年1月16日、

3家族名で外務省に嘆願書を提出しました。その後、幹事社だったNHKが

アレンジをしてくれて学士会館で記者会見を開く予定でした。ところが、

会見前にNHK記者から「家族に会いたがっている人がいるが、会ってみては

どうか」と紹介され、北朝鮮関連の書籍などを出版している左翼系書店経営者の

E氏に面会しました。E氏は次のように語りました。

「私たちは金丸氏の訪朝のため1年有半いろいろ努力してきました。今ここで、

警察からこんな話が出てきては、なにもかもぶちこわしになってしまいます。

記者会見では住所氏名は言わないようにして下さい。その代わり、私たちには

金正日の主治医に通じるルートがあります。1、2ヶ月待って下されば、

必ず良い返事を持ってきます」

結果的にはだまされたのですが、そのとき私は、金丸外交を進める立場の人が

恵子らを秘密裏に助けるというのだから可能性はあると一抹の希望を胸に抱き、

この提案に同意してしまいました。そのくらい私たちはすがる思いだったのです。

その結果、記者会見で私たちは、匿名を貫き質問にも一切応じませんでした。

集まった記者からはなぜ、匿名にするのか。記者会見に臨んでいながら、なぜ

全く質問に答えないのか、それはおかしいではないかと散々な非難に晒されました。

多くのマスコミが記事にすることはありませんでした。

その後、E氏とは1年半程度、つきあいましたが、結局、何も進展しませんでした。

E氏は最後にパイプになっていた人物が死んだと言い残して連絡が途絶えました。

ただし、E氏は個人で動いていたとは思えません。上記したように、1991年5月、

第3回日朝交渉で田口さんのことだけが取り上げられたとき、外務省に抗議に

行きました。すると、その直後にE氏が私の自宅に電話をかけてきて

「(恵子さんたちを救出する)あの話はまだ生きていますから、静かにしていて下さい」

と要請し、わざわざ神戸までやってきて私たちを説得したからです。

E氏がなぜ、私が外務省に抗議したことを知っていたのでしょうか。拉致を隠蔽する

金丸外交を進めようとしていた外務省内の勢力がE氏と連携して動いていたのではないか、

と強く疑っています。

このようなおかしな動きをしていたE氏を私たちに紹介したNHK記者は、ご自身の

意図がどこにあったのかはともかく結果として拉致隠蔽工作を助けたと言われても

しかたないと私は考えています。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 15

■命がけだった「取材協力」■

1988年当時、マスコミは拉致問題を報じる姿勢がありませんでした。

先に書いたように同年3月に、梶山国家公安委員長が国会で蓮池さんら

3組6人のアベックらについて「北朝鮮による拉致」という言葉を使って

答弁したにもかかわらず、朝日、読売、毎日は一行も書かず、産経と日経が

ごく小さな記事を載せただけです。テレビ報道も大同小異だったようです。

ですから、拉致家族の私でさえ、梶山氏の答弁を知ったのは1994年のこと

だったのです。

私たちも先に書いたように、外務省の提案を受け入れて、マスコミへの

接触をひかえていました。

ところが、金丸訪朝の数ヶ月後の1990年12月、週間文春の記者が自宅を

訪れて、恵子たちの拉致について記事にしたいというのです。つづいて、

新聞やテレビ何社かの電話取材などもありました。話を聞くと、手紙のコピーを

含めてかなりの情報がすでに多くの社に漏れていることがわかりました。

取材を受けるかどうかで私たちは悩みました。恵子のことを明るみに出して、

救い出したい。しかし、外務省との約束もあり、事件が報道されると恵子たちの

身に危険が及ぶのではないか。家内は恵子の身の安全を案じて取材に協力することに

反対しました。私も悩みました。しかし、覚悟を決めて結論を出しました。

それは「日朝国交交渉がまとまれば過去を償う巨額の資金が北朝鮮に渡されるが、

政治家も外務省もこのままでは恵子たちの救出を取り上げようとしない。

これではカネだけ取られて拉致は棚上げにされてしまう。手紙が来ているという

事実を公開して訴えるしかない」と取材協力することにしたのでした。

1991年1月、毎日新聞と産経新聞などに大きく記事が出ました。また、週間文春は

何週間か連続して報じ続けました。ヨーロッパで失踪した3人の男女が北朝鮮で

暮らしているという手紙が実家に届いたという内容で、匿名扱いされました。

私たち家族は秘密を守っていたのに、なぜこのタイミングで情報が、マスコミに

漏れたのでしょうか。断定はできませんが、複数の記者らは外務省と警察から

情報を得てきたと話しました。拉致を隠蔽する金丸外交に危機感を持った

警察関係者の意図が働いていたのではないかと当時私は推測しました。

(つづく)
*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)
2月 14

■取り合ってくれぬ日々■

1993年5月、兵庫県警の捜査員が私の自宅を訪れ、1枚の写真を見せてくれました。

そこには恵子と見知らぬ中年の男性の2人がベンチで座って写っていました。

そのとき捜査員は次のように説明しました。

「このとき娘さんは朝鮮名のパスポートを使っていました。

男は北朝鮮工作員、キム・ユーチュル。これが(北朝鮮に送られた)確かな証拠です」

のちに、この写真は恵子が失踪した1983年7月、デンマークのコペンハーゲン空港で

西側の情報機関によって撮られたものだとわかります。

警察がこの写真をいつ入手したのかは、いまだ明らかにされていません。

しかし、私は手紙が届いた1988年9月の段階ですでに入手されていたと考えています。

なぜなら、1988年手紙が来た直後に長田署に連絡するとすぐ、行方不明になる前の写真の

提供を求められたからです。

恵子が失踪した直後の1983年に何回か地元の長田署に捜査をお願いしたときには

写真の提供は求められなかったのですから、あのとき警察がコペンハーゲンの写真を

入手しており確認作業をしようとしたのではないかと思うのです。恵子の事件は

たんなる海外での失踪事件ではなくなり、北朝鮮による拉致事件として警察が重点的に

情報収集をしていたのでしょう。

この推測が正しければ、政府は金丸訪朝の時に恵子たちが北朝鮮に拉致されたという

証拠を握っていたことになります。それなのに、事件を隠蔽したまま金丸外交は

進められたのです。手紙を持ち込んだ私たちに外務省が秘密にしておくように提案したのも、

拉致を知っていながらも隠蔽してしまおうという金丸外交の方針に従ったものだった

とも思えるのです。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 12

■取り合ってくれぬ日々■

金丸訪朝の結果、1991年から92年まで日朝国交交渉が7回にわたって

続けられました。私たちはそれに期待をかけ、91年1月に石岡さん家族とともに

上京して外務省に恵子たち3人を救出して欲しいとの「嘆願書」を提出しました。

しかし、外務省は恵子たちの問題を正式議題として一度も取り上げてくれませんでした。

せめて、安否だけでも知りたいという家族の切実な願いすら裏切られました。

それどころか、7回の交渉の中で、すでに1988年に国会で梶山答弁があった

蓮池さんら3組6人のアベックの件についても一度も言及しなかったのです。

ただ、1991年5月第3回日朝交渉でその直前に警察が身元を特定した「李恩恵」と

呼ばれていた田口八重子さんについてのみ、調査を依頼しました。それに対して

北朝鮮はでっちあげだと非難して直ちに退席してしまいます。それに恐れたのか、

外務省は第4回交渉から本会談の席で田口さんの問題を持ち出すことさえも

やめたのです。

私は、第3回交渉で田口さんの問題が取り上げられたとき、すぐ外務省に出向いて

「李恩恵の件だけでなく、平壌から手紙が来ている3人も含め、全員の解放を

要求すべきだ。なぜ、放っておくのか」と激しく抗議しましたが、

とりあってもらえませんでした。

この間、私たちが外務省に陳情に行っても、部屋にも入れてもらえず、

末端の担当事務官が玄関のソファーなどで話を聞くだけでした。このことからも

外務省は国民の命と安全をどう考えているのかがわかります。後日家族会が結成された後でも、

アジア局長が自民党の会合でたった十数人のことで日朝交渉が妨げられてはならないなどと

発言されました。許せない暴言ですが、こうした感覚が金丸外交後も外務省の中には

まかり通っていたんでしょう。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 11

■「あんな手紙では北朝鮮に言えない・・・」裏切られた金丸訪朝■

1990年になると、金丸信・自民党副総裁が中心になって自社訪朝団が

派遣されるという話が大きく報じられました。しかし、そのときは

北朝鮮に抑留されていた第18富士山丸の乗組員の釈放問題などが話題となるだけで、

拉致問題はほとんど触れられず、もちろん恵子たちのことはまったく出ませんでした。

手紙のコピーを外務省に提出してあるのだから、政府と政治家は秘密裏に

恵子たちの救出にも取り組んでくださるはずだと信じつつも、居ても立っても

いられなくなって1990年春、最後の陳情のつもりで上京しました。

先遣隊として北朝鮮に行くことになった地元出身の石井一議員にお会いして

手紙のコピーを渡しました。そして「この手紙は娘が北朝鮮にいることを

証明する手紙です。なんとか金丸先生にお会いできないでしょうか。

また、先生は(先遣隊として)北朝鮮に行かれるそうですが、(この件を)

北朝鮮政府に訊いて頂けないでしょうか。家族は皆、心配しております。

どうか宜しくお願いします」と頼みました。

私たちの願いを耳にした石井先生は「私が責任を持ってこのコピーを

金丸先生に渡します。またこの問題は、私自身としても強く北朝鮮に対して

訴えますから、安心して下さい」と力強く話されました

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 10

*拉致の証拠が次々出てきた 1988年

先に書いたように、1988年になり多くの日本人が

北朝鮮に拉致されて帰れないでいるということを

証明する証拠、証言などが多数出てきました。

大韓航空機爆破事件の容疑者、金賢姫が

この年2月に記者会見をして、「李恩恵」と呼ばれる

拉致された日本人女性と20ヶ月同居し

日本語や日本の習慣などを教わったと告白しました。

それを受けて、3月参議院予算委員会で、

梶山静六国家公安委員長が、「李恩恵」だけでなく

蓮池さん夫妻、地村さん夫妻、市川修一・増元るみ子さんら

3組のアベックと原ただあきさんについて

「北朝鮮による拉致が濃厚である」という歴史的な答弁を

しました。

そして、9月、石岡亨さんから松木薫さんと恵子の3人で

北朝鮮に暮らしているという手紙が石岡さんの実家に

届きました。そこには、石岡さん、恵子とその二人の

子であると思われる赤ん坊の写真三枚、旅行保険証書などが

同封されており、恵子たちが送ったものであることは

間違いありませんでした。

しかし、私たちが得た証拠に対する霞ヶ関、永田町の

反応は鈍く、冷淡でした。

私と家内はすぐに警察庁、外務省などを訪れ救出を

求めました。そのとき外務省北東アジア課の事務官は

「これが公表されたら、本人に危害が及ぶこともあり得ます。

当分秘密にしておきましょう」と提案しました。

家族としては、外務省がそんな提案をしたのですから、

世間には秘密にしているけれども外務省は内々で解決を図り

必ず何とかしてくれるのだ、と信じてその提案に同意しました。

なお、このとき、自民党、社会党の政治家の事務所にも

相談に行きましたが、唯一、親身になって話を聞いてくださったのが

安倍晋太郎事務所でした。安倍晋三前首相は当時、同秘書として

勤務しており、そのときから一貫して拉致問題の重要性を理解し、

出来る限りの努力をしてくださったことも忘れられません。

1989年1月に当時の竹下登首相が国会で、「前提をつけずに

北朝鮮と話し合う用意がある」と発言しました。当時の私たちは、

北朝鮮に関する国の動きは、常に恵子たちのことを踏まえていると

思いこんでいました。竹下発言を聞いて、私たちは政府は北朝鮮との

国交交渉の場で、恵子たちの救出に取り組んでくれるのだと

喜びました。それで竹下首相に手紙を送ったりもしました

(後日、竹下事務所に確認すると「受け取ってない」と

いわれてしまいましたが)。(つづく)

2月 9

■過去の検証なしに拉致の解決はない■

seiron私は北朝鮮に拉致された有本恵子の父、明弘です。

金正日が拉致を認めて5人の被害者が帰国したのが

2002年ですから、すでにそれから5年が過ぎました。(平成19年11月当時)

しかし、北朝鮮外務省は今年(平成19年)7月はじめ、拉致問題は

すべて解決したと開き直る備忘録を公開しました。

このことに端的にあらわれているように、拉致問題への

北朝鮮の姿は全く変わっていない。拉致被害者のうち、

死亡とされた8人(私の娘も含まれています)や

未だに拉致自体が認められていない、多くの被害者も

放置されたまま残っているのです。

事態はなぜ進展しないのか。

もちろん、

一番悪いのは北朝鮮の金正日政権です。

しかし、過去、日本の中に

拉致隠蔽をはかった勢力がおり、今に至るまでその人たちが

きちんとした反省をせずに、政界やマスコミなどに残っており、

その勢力が、拉致問題解決を背後から妨害しているのではないか、

と強く危惧するのです。

私の持論は「拉致を隠蔽した金丸外交と

それに加担した政治家、マスコミの検証なしに拉致の解決はない」

です。

その点に関して、私がこれまで経験してきたことを

話させていただき、さらにそれを踏まえて

問題提起させていただきたいと考えています。

北朝鮮が日本人を拉致していることが明白になったのは

1988年です。しかし、その直後に金丸信氏、田辺誠氏ら

自民党と社会党の政治家、外務省は明白になった拉致の事実を

隠蔽し、拉致問題の解決なしに日朝国交正常化を目指すという、

許し難い外交を行ったのです。それを支えたのは今の(平成19年当時)民主党代表、

小沢一郎氏や先の(平成19年の)選挙で民主党から参院議員に当選した石井一氏らです。

そして、本来ならその許し難い外交を国民の前に告発すべきマスコミが

拉致問題を無視して、金丸氏らを助けたのです。

第一に、私が体験した政治家と外務省の拉致隠蔽工作を記し、

第二に、隠蔽工作に加担したマスコミについて告発します。(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 9
「有本明弘さんの手記」連載について
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☆心ある日本人必読!有本明弘さんの手記を転載させて頂きます

『どうしても言いたい!拉致隠蔽に群がった政・官・マスコミへの根本的不信』

と題した有本明弘さんの手記(「正論」平成19年11月号に掲載)を

有本さんのご了解を得て、本HP上に転載させて頂きます。

数十年間にわたる有本明弘・嘉代子さん御夫妻による恵子さん救出の戦いの概要と

有本恵子さん拉致と救出活動を通して浮かび上がってくる

現代日本社会の病んだ姿、病理・病根を改めて認識するとともに

なぜ拉致救出が一向に前に進まないのかを考えるためにも、

この有本さんの手記は心ある日本人にとって必読の一文です。

是非、お一人でも多くの方々に御一読願いたいと思います。