6月 30

恵子さんの失踪から五年が過ぎようとしていた

一九八八年(昭和六十三年)九月、

生存を信じる家族のもとに思いがけない情報がもたらされた。

それは「Iさん」という北海道に在住している女性からの一本の電話だった。

彼女の話は、想像を遥かに越えた内容で、にわかには想像できないものだった。

「行方不明だった私(Iさん)の息子が、北朝鮮の平壌で生存しているという手紙を受け取りました。

三人の日本人と共に生活しているそうで、その内のお一人が有本さん、

あなたのお嬢さんです。

写真も同封されていましたのであとで送ります・・・」

母は必死で記憶の糸を辿った。

「たしか最後の連絡はコペンハーゲン、

ヨーロッパで市場調査の仕事を手伝っていると言っていたはずが

どうして北朝鮮に居るのかしら?」。。。。。(つづく)

6月 29

今春(平成12年)のロンドンからの手紙は、

相当額の預金残高を残し十八年間手付かずの口座を不審視した英国当局が

、同銀行に問い合わせたものが照会されて来たものである。

すぐに神戸の支店を訪れたが「支店が違う」と門前払い。

やむなく知人を介し東京の本社を通じて

「北朝鮮による拉致事件に巻き込まれたので、

口座は日本へ移設してほしい」と要請した。

すると「政府機関の証明がなければ不可能」と返答され途方に暮れていたという。

最終的には様々な配慮が為され事なきを得たものの、

一連のやりとりが有本夫妻を苦悩の原点へとフラッシュバックさせた。

母はなおも続ける。「県警外事課へ捜査依頼を出したら、

次々と海外で亡くなった日本人女性の身元照会を受けました。

だから私は言ったんです。

亡くなった方のお話ならもう結構です。娘は生きていますから・・・」

その後、

両親が娘の平壌での生存を知るのは、昭和六十三年九月のことである。

6月 28

 両親は一切援助しなかったという。

「それで諦めるに違いない」と考えての事だ。

しかし気丈な性格の恵子さんは、

幼い頃より慕っていた父明弘さんの妹Sさんを頼りにしつつ渡航の準備を始めていた。

Sさんは物心両面で彼女を支え、恵子さんもまた多くの悩みを打ち明けていたに違いない。

それがまさかこんな事になるとは・・・Sさんもまた悲劇の渦に巻き込まれていくのである。

「私たちは最後の最後まで反対したんです」と母の声は震えていた。

恵子さんの決意は固く、彼女は旅立った。

ロンドンでの生活費、学費のすべてを賄うために、

見知らぬ土地で彼女はベビーシッタ-として子供たちに接しながら頑張っていたという。

反対を押し切っての渡航であればこそ手紙は欠かさなかった。

約束を大幅に過ぎた約一年半後の昭和五十八年十月、コペンハーゲンで消息を断つまでは。(つづく)

6月 27

 今年(平成12年)春先、東京三菱銀行ロンドン支店から一通の英文の手紙が有本家に届いた。

母嘉代子さんは「娘に関する事だ」と直感したという。

愛娘恵子さんは昭和五十七年四月、「半年だけ」と言い残し親元を離れロンドンへと旅立った。

十八年の歳月を経てもなお、母の目にははっきりと面影が映っているのだろう。

恵子さんの『実像』を語る母の傍らで涙を堪える父明弘さんの姿がそれを如実に物語っている。

十九歳の女性が語学留学を夢見るのは当時でも珍しくはない。

しかし彼女の場合はそんな恵まれた話ではなかった。

両親は渡航を決して許さなかったのである。

彼女は神戸外国語大学の二部に通いながらアルバイトですべてを賄おうと必死だった。

大阪の国際語学センター(現在閉鎖)の学費もすべて自分で捻出した。(つづく)

6月 26

約10年前、まだ5人の拉致被害者も帰国を果たしていなかった頃、

同志の皆さんと、

「グローカルひょうご」というミニこみ誌を作成していましたが、

その中で『恵子、お母さんは待っていますよ!』と

題する有本恵子さん拉致にまつわる連載を行ったことがあります。

これから本コーナーでは、

その時の連載を筆者である長瀬猛さんの了解も得て掲載してまいります。

非常に重大な内容が含まれています。是非ご一読ください!