7月 12

 警察庁では「警察ではどうする事もできない」との返答しか得られず、

外務省では「国交がないので無理です」と門前払い。

同行しているR氏も「残されたルートは赤十字がありますが・・・」と頭を抱えた。

年内には両親そろって再度上京した。

警察庁外事課の担当者は「どうする事もできないが、

せめて外務省北東アジア課を紹介します」と外務省内へ二人を伴い、

山本課長補佐を紹介した。

しかし彼の口らは「今動きますとお子さんに危害が及ぶので、

絶対に動かないで下さい。」と、

口止め以外何ら新しい情報は聴かされなかった。

 

 地元選出の社会党衆議院議員川上民夫氏は、

「とにかく真意は(党中央に)伝えるが、難しい。

ルートは確かにあるが、

(北朝鮮に)話をした後の(国内の)体制が整わないと不可能だ」と

二人に語っている。両親に選択の余地はなかった。

考えうる最善の方策は、沈黙を守る事だった。

昭和63(1988)年、筆者が大学推薦試験に合格した年である。

世の中は後にバブルと呼ばれる好景気の真っ只中、

高級外車に彼女を乗せた先輩に憧れていた頃である。

有本さん家族が強いられた”沈黙”がいかに残酷であったか、

当時の世相を思い浮かべれば、それは容易に想像できる。

(1沈黙の始まりおわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

7月 12

 昭和63(1988)年9月、

北海道のIさんから受けた「ピョンヤンでの娘の存在」の一報から数日後

、両親は当時社会党の衆議院議員・土井たか子氏の事務所を訪問する。

恵子さんの事件で、

最も早く当事者の家族情報を受けた政治家は彼女である。

 当日は秘書の保田秀雄氏が対応した。

「社会党が持っておられるパイプを活かして、

何とか娘の帰国に尽力して頂きたい」と懇願するも、

「本人(土井たか子)に伝えます」と素っ気無い。

以後音信もなく事実上の無視であった。

 「やはり与党の実力者の耳に、直接訴えなければ・・・」

当初竹下登内閣総理大臣への直訴を企画したが何の伝手もなく、

議員会館への問い合わせにより、

次期総理と目されていた

故・安倍晋太郎自民党幹事長(当時)の事務所の紹介を受ける。

早速連絡すると「まずは来て下さい」と訪問を促され、

母嘉代子さんは単身上京、事務所を訪れる。

対応した秘書のR氏は「非常に難しい問題だが、

まずは当たってみましょう」と言い、

その日の内に嘉代子さんを警察庁と外務省へ伴った。

尚、後日R氏は「現在(北朝鮮から)莫大な金を要求されています」

と”難しい問題”とした原因として、

社会党が朝鮮労働党幹部党員を招聘した折、

帰国を前にして「国家賠償はどうしてくれるのか」と、

彼らが捨て台詞を残したという事案を明らかにした。

13年前(平成13年当時)の事である。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

7月 6

 警察庁では「警察ではどうする事もできない」との返答しか得られず、

外務省では「国交がないので無理です」と門前払い。

同行しているR氏も

「残されたルートは赤十字がありますが・・・」と頭を抱えた。

年内には両親そろって再度上京した。

警察庁外事課の担当者は「どうする事もできないが、

せめて外務省北東アジア課を紹介します」と外務省内へ二人を伴い、

山本課長補佐を紹介した。

しかし彼の口らは「今動きますとお子さんに危害が及ぶので、

絶対に動かないで下さい。」と、

口止め以外何ら新しい情報は聴かされなかった。

 地元選出の社会党衆議院議員川上民夫氏は、

「とにかく真意は(党中央に)伝えるが、難しい。

ルートは確かにあるが、

(北朝鮮に)話をした後の(国内の)体制が整わないと不可能だ」と

二人に語っている。

両親に選択の余地はなかった。

考えうる最善の方策は、沈黙を守る事だった。

昭和63(1988)年、筆者が大学推薦試験に合格した年である。

世の中は後にバブルと呼ばれる好景気の真っ只中、

高級外車に彼女を乗せた先輩に憧れていた頃である。

有本さん家族が強いられた”沈黙”がいかに残酷であったか、

当時の世相を思い浮かべれば、それは容易に想像できる。(つづく)

7月 5

 昭和63(1988)年9月、

北海道のIさんから受けた「ピョンヤンでの娘の存在」の一報から数日後、

両親は当時社会党の衆議院議員・土井たか子氏の事務所を訪問する。

恵子さんの事件で、

最も早く当事者の家族情報を受けた政治家は彼女である。

 当日は秘書の保田秀雄氏が対応した。

「社会党が持っておられるパイプを活かして、

何とか娘の帰国に尽力して頂きたい」と懇願するも、

「本人(土井たか子)に伝えます」と素っ気無い。

以後音信もなく事実上の無視であった。

 「やはり与党の実力者の耳に、直接訴えなければ・・・」

当初竹下登内閣総理大臣への直訴を企画したが何の伝手もなく、

議員会館への問い合わせにより、

次期総理と目されていた故・安倍晋太郎自民党幹事長(当時)

の事務所の紹介を受ける。

早速連絡すると「まずは来て下さい」と訪問を促され、

母嘉代子さんは単身上京、事務所を訪れる。

対応した秘書のR氏は「非常に難しい問題だが、

まずは当たってみましょう」と言い、

その日の内に嘉代子さんを警察庁と外務省へ伴った。

尚、後日R氏は「現在(北朝鮮から)莫大な金を要求されています」

と”難しい問題”とした原因として、

社会党が朝鮮労働党幹部党員を招聘した折、

帰国を前にして「国家賠償はどうしてくれるのか」と

、彼らが捨て台詞を残したという事案を明らかにした。

13年前(平成13年当時)の事である。(つづく)

7月 5

平成12年暮れ、「よど号事件の犯人の家族、帰国実現か?」、「重信房子、逮捕!」、

いずれも日本赤軍に関するニュースが世間の耳目を集めた事は記憶に新しい。

 年明け早々の正月2日(平成13年)、神戸市長田区の有本さん宅を訪れた。

父明弘さんは開口一番、

「彼ら(よど号の妻たち)には、

(拉致事件の)真相を明らかにする義務があるのでは」と不快感を顕わにした。

 娘との再会を信じ、

18年目(平成13年当時)を迎えた両親の心にある”怒り”の本質は何なのか?

「拉致事件」の存在こそ世間の知るところとなった昨今だが、

多くは知らされていない。

 ”よど号の妻たち”が語るべき真実はおろか、

関わりすら伝えるマスコミは皆無と言っても過言ではない。

本編(第3回)からいよいよその真実に肉迫する。

7月 1

 母は「とにかく娘は生きている。

何がどうなっているのやらさっぱりわからないけど、

何とかしなくては」と当時の興奮と不安を表現した。

傍らで終始無言だった父も「言うなと言われても、

もう娘の事は頼んでいたので警察へはIさんの事を話した。

すると執拗にその写真と手紙の提供を求められて、

随分困惑した」と警察との生々しいやり取りの一部始終を語り始めた。

事件はこの直後から再び県警外事課が担当する。

 県警は数年後、

北朝鮮の工作員と恵子さんが一緒に写っている写真を

”確たる証拠がある”として両親に提示した。

しかし、警察は恵子さんの生存をいつから知っていたのだろうか?

提示された写真は1983(昭和58)年7月16日にコペンハーゲンの

カストロップ国際空港のロビーで、

現地捜査当局がマークしていた、

キム・ユーチョルなる人物を撮影したものだった。

更に、恵子さんはこのとき偽造旅券を使わされたという事まで確認されている。

 両親は12年前のこの時点で”拉致事件”の存在など知る由もない。

それどころか前出北海道のハマダ氏の

”口止め”にも一点の疑念も抱かなかったという。

娘の身を案じればこそ当然であるが、

娘との再会を信じて迅速に行動した。

そして先ず、

当時社会党の衆議院議員・土井たか子の地元事務所(西宮市今津)へ

赴くのである。。。。。(つづく)

7月 1

五年前に届け出た恵子さんの失踪事件は、

このころには県警外事課から一旦所轄の長田署へ所轄が移り、

海外行方不明邦人の照会が、時折もたらされていた頃なので

、あまりにも唐突な情報だった。

その事を知ってか知らずか「Iさん」は

「決して警察やマスコミなどには公言しないで下さい。

それと、社会党(現社民党)の方にお知り合いが

いらっしゃれば相談して下さい」と申し入れて話を終えた。

その数分後のことである、

時間を計ったようなタイミングで再び有本家の電話が鳴り響いた。

電話の主は、社会党北海道支部のハマダと名乗る男性だった。

彼はまるで「Iさんと」の会話を聞いていたかの如く

「とにかく本人の安全を考えて、くれぐれも他言無用」と

念を押して早々に電話を切ったという。

両親は今に至る十七年間、様々な人々と会い奔走を続けるが、

このハマダ氏と話したのはこれっきりだった。。。。。。(つづく)