警察庁では「警察ではどうする事もできない」との返答しか得られず、
外務省では「国交がないので無理です」と門前払い。
同行しているR氏も「残されたルートは赤十字がありますが・・・」と頭を抱えた。
年内には両親そろって再度上京した。
警察庁外事課の担当者は「どうする事もできないが、
せめて外務省北東アジア課を紹介します」と外務省内へ二人を伴い、
山本課長補佐を紹介した。
しかし彼の口らは「今動きますとお子さんに危害が及ぶので、
絶対に動かないで下さい。」と、
口止め以外何ら新しい情報は聴かされなかった。
地元選出の社会党衆議院議員川上民夫氏は、
「とにかく真意は(党中央に)伝えるが、難しい。
ルートは確かにあるが、
(北朝鮮に)話をした後の(国内の)体制が整わないと不可能だ」と
二人に語っている。両親に選択の余地はなかった。
考えうる最善の方策は、沈黙を守る事だった。
昭和63(1988)年、筆者が大学推薦試験に合格した年である。
世の中は後にバブルと呼ばれる好景気の真っ只中、
高級外車に彼女を乗せた先輩に憧れていた頃である。
有本さん家族が強いられた”沈黙”がいかに残酷であったか、
当時の世相を思い浮かべれば、それは容易に想像できる。
(1沈黙の始まりおわり。以下つづく)
長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より




