8月 31

ウニタ書房の遠藤忠夫は、昨年(1990年)末かなりの頻度でテレビに登場している。

ご記憶の方も多いと思うが、

”日本赤軍のリーダー重信房子の逮捕”と”よど号の妻子の帰国近し”に関するニュースで

「日本赤軍について詳しい・・・」とか

「よど号メンバーの家族を支援している・・・」などの

キャッチフレーズで得意満面、評論家ぶっていたあの人物である。

 なお、事情通によると、ウニタ書房とは新左翼過激派の出版物等を、

グループに関係なく幅広く取り扱う書店として有名な店であり、

それらのシンパや活動家が盛んに出入りしているという(当時)。

 無論、当時、家族が遠藤の素顔など知るよしもなかった。

「今想えば謀られた」と有本夫妻は語る。遠藤は家族に、

永久に朗報をもたらすことはなかった。

(第3章幻の記者会見おわり。以下、次章につづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 30

思いもよらない申し入れに、有本さん・Iさんの2家族は混乱した。

「自民党の実力者でもある金丸氏ならもしかすると・・・」。

明弘さんは当時を振返り、

苦虫を噛み潰す様にこの申し入れを受け入れたことを語った。

遠藤を交えた会談は程なく終わり、家族はどうしたら良いのか分からないまま、

会見場へと向かったのである。

 実名は明かせないこと、

写真およびテレビカメラの撮影はできないことが、

集まった報道関係者に告げられると、にわかに場内は険悪な空気に包まれ騒然としたという。

「(ペルシャ湾から目が離せない)今日のこの時間をどうしてくれるんや」、

「圧力がかかったのか」、

「ふざけるな!」・・・記者たちの怒号が有本夫妻にも突き刺さった。

一切想定していなかった事態に、

「何も話せなかった」と有本嘉代子さんは当時を語る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 28

予定通り外務省への要望書提出を終え、2人の記者は、

前夜有本明弘さんが面会を承諾したウニタ書房の遠藤忠夫と名乗る人物を引き合わせた。

既に会場に集まっているマスコミを待たせて、遠藤、NHKの記者2名と両家族の会談が始まった。

 「私に任せて欲しい。何とか救出するから実名は伏せて下さい」。

遠藤は開口一番、事実上の会見中止を強く要請した。

そして、

「われわれは1年以上にわたり金丸氏(故人、当時自民党代議士)の訪朝実現のために、

様々な労力を費やしてきました。

今、警察からこのような話が明らかになれば、

何もかもぶち壊しになってしまう。

くれぐれも記者会見では住所・氏名を言わないで下さい。

その代わり、われわれには金日成の主治医につながる確かなルートがあります。

1~2ヶ月待っていただければ、必ず良い返事を持ってきます。」と、

さらに強く迫ったのであった。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 25

平成3年(1991年)1月16日、

記者会見が実現するはずだった日である。

当時のマスコミは連日ペルシャ湾に集結した多国籍軍と、

クウェートに侵攻したイラク軍の動向を連日トップで報じていた。

この日は湾岸戦争勃発前夜だったのである。

 記者会見を司る幹事会社NHKは、

神戸から1月7日の取材で有本夫妻と面識がある田村記者と、

東京の崎本記者を派遣して、

2家族による(有本さん・I さんの家族が参加、熊本のMさんの家族は不参加)外務省への救済要望書提出から、

都内での記者会見に至る全行程を取り仕切っていた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 21

この時点まで、記者会見の構想を3家族が持っていた訳ではない。

急遽決まったこの事を当日同席していたNHKの記者に伝えたところ、

スムーズに進展、同社が幹事会社となり記者会見がセットされ、

外務省の窓口も北東アジア課の今井課長が対応することとなった。

 1月15日深夜、NHK神戸支局の山本記者から有本明弘さんに電話連絡が入る。

「明日(記者会見当日)東京で会って欲しい人がいます。いかがでしょうか?」。

有本さんは、それがどんな人物か、

皆目見当もつかなかったが、

全てを託している幹事会社からの申し出でもあり承諾することにしたのであった。

(マスコミの一斉報道おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 20

1月7日(1991年)の一斉報道により家族は決断を迫られる。

「意に反したとは言え事ここに至り、事件の内容が公となった以上、広く世間に訴えて早期解決を国に促す方が良いのでは・・・」。

そして、Iさん(北海道)・Mさん(熊本)の2家族は1月15日、神戸の有本さん親類宅に集った後、翌16日上京。

3家族そろって外務省への「救出要望書」提出を決行する運びとなった。

昨年来、有本さんへの取材を続けていたマスコミ各社へもこの事は伝えられた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 17

 1月9日付け北海道新聞は「平壌の札幌男性(Iさん)名義旅券、よど号柴田被告が所持」と報じている。

赤軍メンバーの柴田康弘は昭和45年(1970年)4月のよど号ハイジャック事件で北朝鮮に渡った後、

密入国していたが昭和63年(1988年)に兵庫県内で逮捕される。

その所持品にあった偽造パスポートは、顔写真を柴田のものに張り替えただけのIさんのパスポートだったのである。

 有本夫妻の陳情を再三受け、

「危害が及ぶ可能性」まで示唆しておきながら、赤軍メンバーがIさんのパスポートを所持していた事実を把握していて、

なお「事実であれば・・・」と語る外務省北東アジア課の何と奥ゆかしく上品なことか。

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 17

「80年代、欧州で男女3人不明、北朝鮮・平壌で生活(毎日新聞)」、

「コペンハーゲンにアジト?北朝鮮、三邦人拉致か(産経新聞)」、

平成3年(1991年)の1月7日の朝刊である。

”拉致事件”の中で北海道のIさん、

熊本のMさん、そして有本恵子さんの3人が海外から拉致された事案を報じる最初の新聞報道である。

 有本さんに頂いたそのコピーに、外務省北東アジア課の談話が掲載されている。

「一部の家族の方からお話を伺っており、、事実であればお気の毒な話です。

今後とも政府としては何ができるか考えていきます。(毎日新聞)」とある。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 17

取材は年を越えて正月にも及んだ。そして1月6日の夜、NHK神戸支局より電話が入る。

 「明日(1月7日)の毎日新聞朝刊に、恵子さんの記事が大きく取り上げられる事をご存知ですか?」電話を受けた嘉代子さんは、

昨年暮れからマスコミ各社から一方的な取材を受けた事などを伝えた。

すると、今からすぐに取材に行きたいと申し入れて来たのである。

とにかく夜間故、当日の取材は断り、翌日であればという事で承諾した。

 家族は一連のマスコミの動きをいぶかしんだ。なぜなら、

2年余月の辛い”沈黙”は、娘の無事を案じればこそ、

外務省などの”口止め”を受け入れたのである。

マスコミが本来知り得ない事実(恵子さんが北朝鮮に、2名の日本人と共に生存している事等)を、

なぜ外務省や警察がリークしたのか?なぜマスコミはこの時期を選んだのか?

 1月7日早朝、NHK神戸支局から山本・田村の2名の記者がやって来たが、

数多の来訪者と同様にその答えを携えてはいなかった。

(3晴天のヘキレキおわり。第3章つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 15

平成2年(1990年)12月中旬「週間文春」の記者が有本家に突然やって来た。

「外務省から情報を聴きました。お話を聴かせてください」と言う彼に、

その外務省から口止めされている両親は困惑した。

 更に奇怪な事に、暮れも押し迫った頃マスコミ各社が大挙有本家に押しかけた。

 「もう誰がどこの人やら、引っ切り無しでした。

共同通信の方がおられたぐらいしか覚えていません。

それ程混乱していたのです。」

嘉代子さんは対応に追われた当時を振返る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 13

 韓国当局に逮捕された実行犯金賢姫(キムヒョンヒ)により、

工作員教育課程での、

日本人教育係李恩恵(リウネ)の存在が明らかにされ、

日本社会に大きな衝撃が走ったのは昭和63年(1988年)1月であった。

 実は同年9月、母が初めての陳情に警察庁を訪れた際対応した人物こそ、

キムヒョンヒを直接事情聴取しリウネが田口八重子さんである事を特定した捜査官だった。

この事を後年になって警察関係者が明らかにした。

同氏がいつ特定に至ったのかは不明であるが、

マスコミを通じて世間に公表されたものには平成3年(1991年)5月とされている。

半島情勢は風雲急を告げ、「拉致事件」も、

”疑惑”として取りざたされるようになっていた。

(2大韓航空機爆破事件おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

8月 11

 昭和63年の前年、

1987年11月29日ビルマ(現ミャンマー)の沖インド洋上のアンダマン海で大韓航空858便は失踪する。

「大韓航空機爆破事件」である。

 ここで今一度時系列上に有本恵子さんの事件と、

両親の苦悩の日々を整理してみよう。

恵子さんの渡航が昭和57年(1982年)4月、

翌58年(1983年)6月には留学先のロンドンを離れ、

家族との最後の連絡は同年10月デンマークのコペンハーゲンからの手紙だった。

北海道のIさんからの生存情報がもたらされたのが、

失踪から5年後の63年(1988年)9月である。

 「大韓航空機爆破事件」は、

家族が恵子さんの生存を知る前年、失踪から4年目に起きた。

「まさかこの飛行機に乗っているなどという事はないだろう」と思ったが胸騒ぎがしたと母は当時を振り返る。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より