9月 27
あらためて拉致とは?拉致解決とは?(続)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 09 27th, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

日の丸ブルーリボン・バッジはじめ

ブルーバッジご着用の皆さんは、

「拉致」が国や社会のあり方の根幹に関わる問題と

認識されている方々であると思います。

(国家主権の侵害であり国民の命に直結する問題)

⇒ぜひ、皆さんには、

支持されている、あるいは地元の代議士に

日本丸の根幹に関わる問題の重要ポイントについて、

あらためて問い質していただきたいと思います。

(拉致とは?拉致解決とは?拉致認定基準とは?・・・)

樹は、根っこや幹を蔑(ないがし)ろにして、枝も葉も育つ道理がない!

と思うのですが、間違っているでしょうか?!

9月 26
あらためて拉致とは? 拉致解決とは?
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 09 26th, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

ブルーリボン・バッジを着用の皆さん、

当会のHPをご覧いただいた皆さん、

あらためて拉致問題の解決とは、一体何を指すのでしょうか?

それは、申すまでもなく、

全ての

拉致被害者の救出と拉致が疑われる

事例の全容解明(救出)に他なりません。

では、

・拉致被害者は全員で一体何人存在するのでしょうか?

 

・被害者は、現在政府が認定している方々だけなのでしょうか?

 

・政府が拉致と認定する、しないの基準とは、一体何なんでしょうか?・・・
皆さんは、これらの重要ポイントについて、

どのようにお考えですか?

人の命に思い軽いは絶対にあってはなりません。

「全員救出、完全解決!」

この原理原則を見失うことなく、

ブルーリボン運動の輪を

もっともっと広げてまいりましょう!

9月 23

嘉代子さんは、

高沢氏から譲り受けた乳児の写真を両手で持ち、

声を震わせながら続けた。

「この子は長女に続く2人目の孫なんです。

どうしてこの子だけこんな不憫なことに・・・。

いつ生まれたかわかりませんが、

多分、

今は15歳ぐらいだと思います。

どんな生活をしているのやら、

とにかく不憫で不憫でなりません。

一刻も早く娘とともに救出したい・・・」

 筆者はこの時、

嘉代子さんにかける言葉を失った。

自身の浅薄な人生経験では、

どうすることもできない巨大な壁に押しつぶされるように、

沈黙するしかなかった。

(第5章日本赤軍よど号グループおわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 22
東国原知事のご支援
icon1 ooya | icon2 日々前進 | icon4 09 22nd, 2009| icon3コメントは受け付けていません。


今日の「TVタックル・スペシャル」にて東国原知事がハートのブルーリボンを付けてくださっていました。

私たち日本ブルーリボンの会が目指している「広く出来るだけ多くの人に」を

日々実践してくださっています。

感謝、感謝!

9月 22

しかも、

この手紙が記された背景について、

「当初共同で生活していたはずのM氏に関する記述が、

恵子さんやI さんと比べて限定されていることから推し量ると、

執筆時にM氏は共同生活をしておらず、

どこか別の場所へ移されている可能性が極めて高い。

北朝鮮では、

行動の自由など一切認められていないので、

一緒にいないということは、

当局の意向であるとしか考えられず、

それが実に恐ろしいことであることは

Iさんと恵子さんも分かっていたはずである。

その証左として、

極めて限られた外出時間内に、

それも監視下で旅行者(ポーランド人)に手紙を託す行為は

極めて危険であるにもかかわらず、

あえてその危険を冒す理由は、

いつ自分たちにMさんと同じ事態が訪れるかもわからないという、

緊迫した状況があったに違いない」と、

この手紙が自分たち、

すなわち恵子さんとIさんの生存の証としての

「愛する人々への悲痛な叫び」

であろうことが、

高沢氏から両親に告げられたのである。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 21

てっきり熊本のMさんだと思い込んでいた乳児は、

Iさんと恵子さんの間に生まれた子ども、

すなわち孫であるというのである。

さらに、

Iさんからの手紙にある

「・・・特に衣服面と教育・教養面での本が極端に少なく、

3人共に困って居ります。・・・」の

記述について、

嘉代子さんは、

李恩恵(リ・ウネ)・・田口八重子さんなどの事案から推測して、

工作員の教育等に従事させられている関係だろうと思っていたが、

これはIさんと恵子さんが厳しい環境下でも、

いつか帰国する日を考えて

必死にわが子を育てているためであろうと、

高沢氏はみているという。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 20

平成5年初旬、

遠藤忠夫が「必ず本人(恵子さん)に渡す」と言って、

家族の寄せ書きを持って姿を消し3年余月が経過していた。

話がそのことに及ぶと、何と高沢氏が彼と面識があると言う。

しかも、

平壌を訪問する際、

彼から「故・田宮高麿(よど号グループのリーダー)に渡して欲しい」と

手紙を託されたと言うのである。

高沢氏はよもやそれが、恵子さんの家族の手紙だとは知らず、

約束通り田宮に手渡したそうである。

 高沢氏は、

おそらく北海道のIさんから入手したであろう鮮明な写真を3枚持参していた。

それは昭和63年(1988年)9月に、

有本夫妻が手紙と一緒に受け取った写真のコピーと同じものであった。

次の瞬間、夫妻は耳を疑った。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 17

平成8年3月、

有本夫妻はテレビ朝日「サンデープロジェクト」

の石高健次プロデューサー(当時)と同行して

外務省へ赴いた。

石高氏とは「闇の波涛から」と題する

大阪の原ただあきさん拉致事件や

横田めぐみさん事件を

詳細に伝える報道特別番組を

制作した人物である。

 しばらくすると、

石高氏は高沢氏を伴って

有本さん宅を訪問したいと申し入れてきた。

既に両者とも面識があり、

今回は自宅で会うことになった。

しかし、

この会談に高沢氏が持参した情報は、

家族にとって

この上なく残酷なものだったのである。

(1訪問者おわり、以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 16

高沢氏の来訪が

有本さんの立場を承知した上でのものであることは、

一昨年来、

明弘さんが知人等に嘆願意見を記して

各報道機関へ送付してもらっていたチラシを

彼が持参していたことから明らかだった。

彼が手にしていたのは、

取引き先のフォークリフトのオペをしている人が、

毎日新聞社に送付していたものだった。

 そこで、

さんは地元選出の自民党(当時、現在は民主党)

の石井一元自治大臣に対し提出した質問状の写しなどを

手渡して事情を説明したという。

明弘さんは「もしかしたら、

家族の立場へ方針を転換するために、

彼は私たちに会いに来たのかもしれない。」

と当時の高沢氏の心中を理解するようになった。

彼は、

よど号メンバーたちへのインタビューを

綴った自らの著書を手渡して帰途についた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

平成7年早春、

同年1月に県下を襲った大震災の傷跡が生々しい中、

新たな珍客が来神した。

高沢皓司(こうじ)と名乗る中年の男性は、

「確かな筋の話として恵子さんは北朝鮮にいる。

是非、お話ししたいことがある・・・」

と訪問の理由を電話で告げてきた。

 嘉代子さんは、

得体の知れない人を家に上げることを拒み、

明弘さんが「外で会うなら」と面会を承諾したという。

とはいえ、

震災により喫茶店など全く営業していない。

来訪者を連れて市内を歩き回ったすえ、

近所で1件だけ店を開けていた「焼肉屋」に腰を落ち着けた頃には、

もうすっかり日が暮れていた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

 「北海道のIさんからの手紙」は、

既に様々な場面で公開されているが、

その手紙には有本恵子さんの旅行保険の写しと3枚の写真が同封されていた。

2枚は北海道のIさんと恵子さんのもの、

もう1枚は生後間もない乳児らしきものであった。

 「文面を素直に読む限り、乳児は熊本のMさんかもしれません。

でも、何でまた自身の乳児期の写真を携帯していたのか?」。

昭和63年(1988年)9月、

失踪から5年ぶりにもたらされた娘の音信に、

母嘉代子さんは、

「非常に不思議な感覚を覚えた」と当時を振り返る。

これらの写真はIさんのお母さんがコピーしたもので、

はっきりと判別できるものではなかった。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 15

5月4日(平成13年)、

「金正日の長男密入国か」の朝刊見出しに驚愕したのもつかの間、

金正男は機上の人となって行方すらつかめていない。

今ここでは政府の対応を批判しない。

その弱腰を、

そのアホ面を、

批判することに慣れていく自分自身に戦慄さえ覚えるからである。

 

 5月15日(平成13年)には、

「拉致解決の好機を逃した金正男退去に怒る緊急集会」が東京で開催された。

また、

いみじくも同じ日、

極めて特異な経歴を有する3人の日本人が成田に降り立った。

それは、

田宮高麿(故人)をリーダーとする

日本赤軍よど号グループの子どもたちである。

 よど号グループは、

拉致事件に深く関与している。

否、実行犯の可能性が極めて高い

本章からは、彼らと事件の関わり、

そして、

グロテスクな独裁者の狂気、

すなわち拉致の目的について探っていく。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 14

明弘さんの質問書に対するNHK社会部長からの返答は、

極めて簡素なものであった。

その返答以来、

NHKは一切「無視」という態度にでるのである。

それは現在に至るまで変わってはいない。

平成3年1月16日の「幻の記者会見」を、

何故「幻の・・・」に終わらせる必要があったのか?

一体なにを守ろうとしたのか?

あるいは、何の露見を恐れたのか?

 

 有本さんの家族や私たち「救う会」などの支援者は

大きな関心を持ちながら、

一民間人には知るすべもない。

NHKの田村・山本・崎本の3記者と

、ウニタ書房の遠藤忠夫も、

大きな動きの中で一脇役を演じたに過ぎないのかもしれない。

しかしながら

、一連の「謀略」に関して彼らの演じた役割は、

極めて重大であり、

かつ悪質である。

(第4章許されざるNHKの罪おわり。以下次章につづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 13

(明弘さん)「警察から恵子の情報を受け取った。

週間文春も恵子の失踪に関わる詳しい記事をスクープしている。

もはや3年前とは明らかに事情が異なるのだから、

再度記者会見を開きたい」。

(崎本記者)

「一度報道したものはニュース性がないので、協力できませんな」。

(明弘さん)「どないしたら、ええんや」。

(崎本記者)「記者会見がしたいなら、用件をまとめたものを、ご自身で各社に流されたらいかがですか?」

 NHKは3年前、

自ら幹事会社に名乗り出て、

記者会見を設定しておきながら、

直前になって前述の「遠藤忠夫」を引き合わせて、

これを「幻の・・・」に終わらせる「茶番劇」を演出した。

それが今度は手のひらを返して、

「勝手にどうぞ」と開き直る。

明弘さんは崎本記者の真意について質問書を同局に送付した。

後日(平成6年12月12日付)NHK社会部長・井出上伸一氏より質問書に対する返答が届いた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 12

明弘さんはこの記事のコピーを基にしたチラシを作成し、

各報道機関へ送付、協力を要請した。

しかし、

各社全く取り合ってくれない。

そこで、

同窓会などで知人に配布し、

嘆願意見を記入して送付してもらうように依頼した。

かなりの人が、明弘さんの心からの願いを聞き入れ協力したという。

しかし、

マスコミからは無しのつぶてだった。

 「どないなっとんや!」。

業を煮やした明弘さんは、

配達証明つき郵便で再度マスコミ各社へチラシを郵送するとともに、

NHK神戸支局へ電話をかけた。

3年前(1991年)1月16日の「幻の記者会見」で

神戸から有本さんに同行した田村記者を呼び出したが、既に転勤していた。4

年前のマスコミ各社による突然の集中取材以来面識がある山本記者も転勤していた。

しかし、

「幻の記者会見」の折、東京から派遣されていた崎本記者が、神戸に赴任していた。

電話には彼が応対に出た。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 8

平成6年(1994年)3月31日発行の「週間文春」が

「日本人留学生失踪事件、平壌に連行したのはよど号の妻たちだった」と題するスクープを掲載した。

それによると、

掲載の写真は国際手配中の大物北朝鮮工作員キム・ユーチュルを、

現地公安当局がコペンハーゲンのカストロップ国際空港で撮影したもので、

同人物と行動を共にしていたと思われる恵子さんが一緒に写ったものらしい。

さらに撮影時点で恵子さんは、

北朝鮮製の偽造パスポートを使っていたことも判明しているという。

キム・ユーチュルの素性については同記事に詳しい。

そして、

恵子さんの拉致に日本赤軍よど号グループの妻たちが、

深く関与しているという衝撃的事実を報道している。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 5

 平成5年(1993年)5月23日、

兵庫県警外事課の捜査官が有本家にやって来た。

彼は懐から1枚の写真を取り出し、

「娘さんに間違いありませんね」と両親に確認した。

そこには確かに恵子さんが写っていた。

「何か駅の待合室のような感じでした・・・」と母・嘉代子さんは写真の記憶を語る。

 恵子さんからの最後の音信は昭和58年(1983年)の10月の手紙だった。

 「一体どこの写真ですか?」

 とたずねても、

捜査官は「確かな証拠です」とは言うものの

明言を避けたという。

 この日、

有本家で1通の調書が作られ、

そこに父・明弘さんがサインした。

 愛娘恵子さんの失踪から、

実に11年の歳月が経過していた。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 4

「拉致事件」というファクターを通して世間を見れば、

言動に重大な結果責任が付随する立場の人々、

「政治家」「官僚」「マスコミ」等の中には、

大きな道義的責任を負うべき人々が大勢居る。

彼らの犯した罪は、

それぞれが属する社会や背景によって様々に分別できるが、

共通しているものは「国益への背任」であろう。

有本さんご夫妻は、愛娘恵子さんと引き裂かれて以来19年<当時>、

同時期に殆どの国民が現在進行形で「危機」を実感することも、

ましてや自らが生まれた社会を疑うなど考えも及ばずに生活していた中で、

その罪を実害として被った稀有な経験をされた。

ご夫妻が耐えがたい苦痛と引き換えに経験されたそれは、

抽象的で捉えどころのない「戦後の歪み」を、叙事的に描き出している。

私たちは未だその歪の真っ只中に在る事を忘れてはならない。(つづく)

9月 4

遠藤はこの一件も含め3回有本夫妻に接触した。

最後に会ったのは平成5年(1993年)初旬だった。

ゼネコン汚職が発覚し、金丸信が政治生命を失いつつある頃だった。

その段階に至り、

もはや遠藤の有本夫妻に対する説得力の根拠は全く瓦解していた。

「金丸訪朝団の実現に尽力し、北朝鮮との太いパイプを得た」という、

当の頼りとする金丸が死に体同然であることは自明だったからである。その点を察してか、

この時の遠藤は終始、神妙な様子であった。

「本人(有本恵子さん)に渡すので、家族で手紙を書いて欲しい」と申し入れてきた。

たとえ、

わずかでも可能性があるならと

有本家の全員が、

限られたスペースに寄せ書きのように想いを綴った。

 この手紙は結局、

恵子さんの手元に届くことはなかった。しかし、

ピョンヤンまでは運ばれていた。

この手紙は、思いもよらない人物が所持していたが、

有本夫妻がそれを知るのは2年後のことである。(1謀略の行方おわり。以下つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 3

ここで、また奇妙なことが起こった。

明弘さんが憤激おさまらぬまま神戸に戻った1週間後、

唐突に遠藤忠夫から電話が入り、

わざわざ神戸までやって来るというのである。

来神した遠藤は言う。

「あの話(平成3年1月16日の記者会見と引き換えに、秘密裏に有本恵子さんたちを救出するという話)は、まだ生きているから黙っていて欲しい。金日成の主治医につながるルートがあるから安心して欲しい・・・」と。

しかし、明弘さんは大いにいぶかしんだ。

遠藤は平成3年1月の時点で「1~2ヶ月の辛抱」と言っていたが、

既にその期間は大きく過ぎている。

そして、

何よりも遠藤がどうして外務省へ赴いたことを知っているのか???(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 2

しかし、

平成3年(1991年)5月には、

大韓航空機爆破事件(1987年)の実行犯キム・ヒョンヒの教育係であった

「李恩恵(リ・ウネ)」が埼玉県の田口八重子さんであることが特定されたと、

警察から発表され、

平成4年(1992年)11月の第8回交渉で北朝鮮側が実務者協議を退席し、

同交渉は決裂した。

父有本明弘さんはこれを受けて単身外務省に赴き、

北東アジア課の山本課長補佐に対し、

「日朝交渉において、リ・ウネ(田口八重子さん)の一件だけを持ち出すとは一体どういうことか。

私の娘や、北海道のIさん

、熊本のMさんの事件解決はどうなるのか。

外務省は全員の解放を要求すべきではないのか」と詰め寄った。

山本課長補佐は、「心中お察しします・・・」と、

まるで暖簾に腕押しだったという。(つづく)

長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より

9月 1

平成3年(1991年)1月16日、

有本さん・Iさん(北海道)の2家族は、

自分たちの子どもが北朝鮮で自由を奪われていることを公表し、

広く世論に訴えて国に早期解決を促すべく記者会見を開くに至った。

しかし、

記者会見の幹事を引き受けたNHKの記者が直前になって、

遠藤忠夫と名乗る「金日成の主治医に通じる太いパイプを有している・・・」という

人物を両家族に引き合わせ、

彼の強い進言により同記者会見は失敗したのであった。

 平成2年(1990年)9月、

自民党・社会党訪朝団(金丸・田辺)は朝鮮労働党との間で、

「日朝三党宣言」に調印し、翌1月からは「日朝国交正常化交渉」が始まっていた。

NHKによる

「謀略(救う会・兵庫(筆者の長瀬猛が代表)は本件の不可解なNHKおよび遠藤忠夫の行為を、”謀略”であると推定します。)」は、

まさにこの最中に発生した。(つづく)