「渡辺友夫先生、韓を直撃する!」
渡辺友夫先生は、
平成15年4月、八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を直撃。
しかし、実は、これが2度目の訪問であった。
この2ヶ月前にも同じ場所を訪れ、
面会を試みるも失敗。
やむなくあきらめ、帰らざるをえなかったのである。
(講談社FRYDAY03.5.27に詳しい)



「渡辺友夫先生、韓を直撃する!」
渡辺友夫先生は、
平成15年4月、八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を直撃。
しかし、実は、これが2度目の訪問であった。
この2ヶ月前にも同じ場所を訪れ、
面会を試みるも失敗。
やむなくあきらめ、帰らざるをえなかったのである。
(講談社FRYDAY03.5.27に詳しい)
<救出活動の経緯>
(3)恩師・渡辺友夫先生
・田中実さんが在学していた頃の神戸工業高校の技術課程は、
1年から卒業までの3年間クラス替えはなかったそうである。
それ故に田中さんのことを覚えているクラスメイトも多い。
ただ卒業から40年近く経って、それぞれの人生を歩んでいる同窓生たちが
名乗り出るのは困難なことであり、私たちもそれは自覚していた。
しかし、そんなことは全くものともせずに立ち上がられた人がいる。
3年間担任教師であった渡辺友夫先生である。
・学校OBに知己のある知人を介して、
「自分が田中の親代わりに」という渡辺先生の申し出を受け、
早速長瀬救う会・兵庫代表が先生のお宅へ赴いた。
・御高齢にもかかわらず、かくしゃくとされた方である。
挨拶もそこそこに田中さんの思い出を語られた。
「彼は施設から通っていたので、常に気をかけていました。
当時の同級生には同じ境遇の者はいなかったので、心配したのですが、
屈託のない笑顔を見せる奴でした。
しかし、弁当が(施設で提供される)小さくて粗末なものだったので、
職員室に呼んでおかずを分けてやったりしました、、、」
ひとしきり語り終えた先生の目は、涙で一杯だった。
・以後、渡辺先生には、あらゆる場所にお運びいただき、
田中実さん救出のために御尽力いただいた。
そして、
ついには、青森県八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を訪れ、
直接お会いいただいたのである。
同行した某雑誌の記者によれば、へらへらとはぐらかす韓に対して、
渡辺先生は掴みかからんばかりの勢いであったそうである。
(その時の様子については、FRYDAY平成17年5月27日号に詳しい)
<救出活動の経緯>
(2)田中実さんの写真公開
・平成14(2002)年は、3月には八尾めぐみ氏が有本さん拉致を証言。
9月には小泉首相が訪朝。
何ともドラスティックに変化した感のある年だったが、
その陰で田中実さんに関して重大な事実が発見された。
・田中さんと同い年の岡田和則氏(当時、救う会・兵庫のメンバーとして活動。
現在、特定失踪者問題調査会常務理事)が、同じ学区(中学校)だったことが判明。
岡田氏は中学校から私学に進学したが、多くの同窓生は田中さんと同じ鷹匠中学校へ入学しており、
そこで田中さんと同窓になったのである。
“灯台下暗し”とはまさにこのことであった。
・岡田氏が早速同窓生に呼びかけたところ、あどけなさの残る中学生時代の田中さんの写真が
手に入ることとなった。
それが声明とともに公開された1号写真だったのである。
・9月16日の「総理訪朝緊急国民大集会」開催直前、
日比谷公会堂の楽屋で開催された幹事会は、異様なまでの緊張感に包まれていた。
訪朝直前の家族との面会を拒む小泉首相に、語気を荒げる関係者も少なくなかった。
その最中に1号写真の掲載されたチラシは披露されたのである。
・しかし、事態はこれで終わらなかった。
小泉首相が機上の人となり、私たちも帰路についた同日、
また新たな証拠がもたらされたのである。
・何と高校時代の卒業アルバムがもたらされたのである。
そこには、1号写真からはうかがい知ることのできない、
生き生きとした男子としての田中さんが収められており、
その豊かな表情は私たちの認識を一変させた。
「田中実さんは生きている!」
・帰国した小泉首相が、「5名生存10名死亡」と家族に告げたその夜、
私たちは憤りにうち震えながらも、皆同様に
「このままでは田中さんは見捨てられてしまう」
との思いを禁じえなかった。
・9月22日、緊急報告会として有本さんに御登壇いただいた後、
数種類の2号写真をマスコミに公開した。
その2号写真は衝撃をもって受け入れられたらしく、
各紙に田中さんが大きく取り上げられることとなった。
さらに情報は寄せ続けられたのである。
<救出活動の経緯>
(1)張龍雲氏との出会い
・平成12年(2000年)秋、神戸市内において、或る団体の
設立記念式典が開催され、記念講演の講師として張龍雲氏が
登壇された。
私たち「救う会・兵庫」の活動にも理解を示していてくれた
その主催団体は、同年3月に家族会と救う会が実施した
「北朝鮮への50万トン米支援・反対抗議行動」
いわゆる「座り込み」に関する報告の場を提供してくれたのであった。
・「救う会・兵庫」はその催しの楽屋で張氏と初対面の挨拶を交わした。
張氏はすでに持病の糖尿病がかなり進行していると語り、
もっと早く皆さんと会っておけば良かったと云って、
長瀬代表の手を握られた。
車椅子から降りる時も奥様の介添えを必要とするほど、その病状は
相当進行していた。
いつでも分からないことがあれば尋ねなさい、と言って名刺を
差し出されたが、その約半年後、張氏は帰らぬ人となった。
・その日の講演内容は、その前年出版の「朝鮮総連工作員」に関する
内容であったが、特に田中実さんのくだりについては
詳しく言及されていた。
・それ以降、兵庫県下で実施する街頭署名活動においても、
有本恵子さんとともに田中実さんの名も連呼して
救出を訴えるよう努めることになった。
しかしながら、
田中実さんに関する世論の関心は極めて低く、
また、張氏の告白を補完するような新たな証言や証拠も
得られず、時の経過を許す日々が続くこととなった。