9月 30

「あんた等は最低な事をしてきている、、、」

まだ何も詳細に触れていないにも拘わらず、

声の主は「暴言」を吐き、そして、

「申し立ては受けているが、

本委員会で取り上げられるかどうかは期待しない様に、、、」

と続けたのである。

まさに後ろから頭を殴られたかの如く、

明弘さんは相手の意図する事が分からなかった。

その後2度目の連絡の折にも、

彼は「暴言」を繰り返したという。

また、嘉代子さんも

「娘の救出に関して色々な人と話しましたが、

あれほど不愉快な事はありませんでした(当時)。

何か面倒臭そうに、高圧的で、

耳元で何度もため息を繰り返されたのです。」

と当時を振り返る。

声の主、その人は柳川昭二という弁護士だった(つづく)

9月 28

それから遡ること約2年の平成3(1991)年1月7日は、

毎日新聞をはじめとする各紙が

一斉に恵子さんの事件を報じた日であるが、

同紙の記事を担当した山崎記者は、

この「公開セッション」に明弘さんを招き、

ある人物と引き合わす事を企画した。

その人物は大阪弁護士会に所属する藤田一良弁護士だった。

明弘さんは恵子さんの経緯をひととおり説明し協力を要請した。

そして2~3ヶ月後のある日、彼から連絡が入る。

「私は現在の大阪弁護士会会長と懇意だが、

間もなく会長が交代してしまうので、すぐに来て欲しい」

という事だった。

明弘さんと嘉代子さんは、

手元にあったすべての資料を携えて同弁護士会を訪れた。

藤田弁護士は「うち(大阪弁護士会)では荷が重過ぎる」と言い、

日本弁護士連合会(日弁連)へ送付して、

人権救済を申し立てる他に道はないという事をご両親に伝え、

諸手続きを代行する事を約束した。

ちなみに藤田弁護士からはその後も連絡が有り、

今でも(当時)ご両親とは懇意にされているという。(つづく)

9月 27

あんたたちは最低な事をしてきている

平成4年12月2日、

大阪市北区の毎日新聞本社内オーバルホールにて

「南北統一に関する公開セッション」が同社主催で催された。

明弘さんは主催者側の招待客として

シンポジウムの成り行きを客席から見守っていた。

同新聞の12月17日朝刊には、

この催しの事が詳しく特集されている。

記事によれば、

民団と総連の関係者が一同に会し、

統一問題を話し合ったとあり、

団体としては欠席した総連の幹部が

個人の立場で意見を表明している点を高く評価している。

有本さんの意見は、僅かに

「北朝鮮に滞在するすべての日本人の名簿を公開して欲しい」

とだけ報じられているが、

特筆に価する内容は見当たらない。

しかし、この日はご両親にとって、

その後に重大に影響を及ぼす事になるのである。(つづく)

9月 22

今回の陳情にあたっては、

Iさん(北海道)とMさん(熊本)の同時救出も要請されたそうであるが、

同席していた外務省担当者からは、

「家族からの救出願いも出ていない人について、

(北朝鮮との交渉に)取り上げるのは難しい」という反応のみだったという。

相変わらずの木で鼻をくくったような役所答弁ではあるが、

見方を変えれば、喫緊の交渉においては、

恵子さんの救出に重点が措かれている可能性を読み取る事ができる。

ご夫妻は異口同音に「原則論で押し切って欲しい」と

期待を口にされたが、楽観視はできない。

「訪朝」は極めて重大な結果をもたらすかもしれない。

私たちはご両親が体験された19年<当時>を記録する使命がある。

今は注目の17日の結果を、息を潜めて待つしかない。

今回伺うお話は、このシリーズを始めた当初より再三お聞きしており、

ご両親にとっても忘れる事の出来ない、ある「疑念」についてである。(つづく)

9月 21

今回の「訪朝の背景」については、

「9月中には東シナ海の不審船も引き揚げられ、

拉致事件への世論の関心も再燃するだろう、

そうなれば国交正常化に向けた動きは完全に滞ってしまう。

(日本政府側に)そういう焦燥感があって

スピーディな決断に至ったのでは?」と

懐疑的な一面も<明弘さんは>お持ちである。

そして、それを裏付けるかの様に数日後の新聞には,

「植民地支配に対するお詫びは、謝罪決議における村山発言を踏襲する」

などのニュースが伝えられ、ついには

「国交正常化交渉の再開は確実(読売新聞)」という新聞報道まで登場した。

一方、嘉代子さんは「娘が戻ってくるとしても、

(Iさんとの間に生まれたと推測される)子供(孫)が

人質に取られる様な事だけは絶対に嫌です。」と語気を強める。(つづく)

9月 20

日朝首脳会談実現か!

9月1日(日)<平成13年>、

一昨日より殺到していたマスコミも一段落し、

落ち着きを取り戻した有本家へ伺った。

挨拶も早々に、「訪朝問題」に言及する明弘さんは、

「近いうちに何らかの結果が出るのでは?」と、

いつになく上機嫌ではあったが、

浮き足立った様子もなくいたって冷静に見受けられた。

これはもしかすると事前に何らかのレクチャーが

当局によりもたらされたのではないだろうか?

と思い、単刀直入に質問してみた。

明弘さんは、レクチャーがあったのか否かについては明言を避けた。

しかし8月にも都内某所にて外務省の職員に対し、

2時間程度の陳情の機会があった様である。

「この際、言うべきは言って欲しい。

資金提供などの援助要請に応じるべきではないと申し入れた。

そのときは(解決までの)2~3年を見越した長期展望を念頭において話したが、

今回の電撃発表を耳にした瞬間は、もしかしたら、、、と感じた。」と

慎重に言葉を選びながら語った。(つづく)

9月 19

8月30日(金)<平成13年>の昼下がり、

得意先との約束にはまだ充分な時間があった私<救う会兵庫 長瀬代表>は、

北陸道を北へ向かってつかの間のドライブを楽しんでいた。

すると、

ダッシュボードに無造作に置いてあった携帯電話が鳴り始めた。

「もしもし、、、」見慣れぬ電話番号を示していたそれは、

神戸のローカルテレビ局の記者がもたらした第一報だった。

記者 「もうご存知ですよねえ、、、」

私  「えっ?」

記者 「ああ、まだお聞きになってないですか、

小泉首相<当時>が訪朝するそうですよ!」(つづく)

9月 18

「日本のマスコミや在日朝鮮人総連合会は

北朝鮮を『地上の楽園』だと宣伝していた。

今にして思うと、特に日本のマスコミのそれは

社会主義への幻想とかつての植民地支配への贖罪意識から

実情を見極めないまま行った手放しの讃美に過ぎないものだった、、、。

政府が事件解決を大幅に遅らせてまで

「何に遠慮しているのか」を探るとき、

行き着くひとつの答えを暗示しているかの如き一文である」

ODAであれ米支援であれ、

その一部を何らかの形で懐に収めようとする行為は、

司直の手に委ねられるべき罪である。

一方「臆病病」は、政治家や官僚あるいはマスコミ関係者が

自らの良心を何処に求めるかが問われているのであり、

道義的責任は狭義な「罪」には問われない。

故になおさら「罪深い」のである。

なぜならその人々には「罪」の意識が欠落しており、

進行性の強い悪性腫瘍に似て気づかないうちに

事態を悪化させてしまうからである。(第10回おわり 次号へつづく)

9月 17

今回の内容には極めて重大な

「政治の罪の一側面」が明らかになっている。

それは「拉致事件を公にして窮地に立つのは日本」という

「臆病風」の事である。

昨年有本夫妻は、塩川財務大臣<当時>に面会陳情のおり、

「何故政府はもっと強い態度で北朝鮮に要求しないのか?」と

質したところ、

「テポドンミサイルを打ち込まれたらどうするのか、

それが恐ろしいのです」という趣旨の発言があったそうである。

最近勧められて、

「北朝鮮大脱出・地獄からの生還(新潮文庫)」という本を読んだ。

これは宮崎俊輔氏という、在日朝鮮人を父、日本人を母にもつ人物が、

1960年に13歳で家族とともに「帰国事業」で北朝鮮に渡り、

辛酸の果てに1996年に脱出に成功して日本に帰国を果たす

壮絶な手記であるが、そこにこんな一文を見つけた。(つづく)

9月 16

政治の罪、その一側面

ODAにまつわる利権構造については、

鈴木宗男事件でにわかにクローズアップされているが、

その本丸は北朝鮮や中国にまつわるものであろう事は

衆知の事実と言っても過言ではない。

しかし平成8年2月20日の法務委員会における、

共産党の質問が流産に終わった背景を、

短絡的にそれと結びつけた私の早合点は、

兵本氏から伺った内容により、瓦解した。

「事実は小説よりもき奇なり」ということか。

兵本氏は平成11年(19999年)

1月号の「正論」誌の経緯を詳述されている。

今回のインタビュー内容は重複する部分も多く、

多忙を極める中でのご協力であった。

当方の勉強不足もあって一からご説明を頂き、

兵本氏には紙面を借りて心から感謝申し上げる。(つづく)

9月 15

(兵本氏の発言つづき)

その後、

拉致議連(旧)の永野参院議員(自民党)<当時>からレクチャーを求められ、

一大決心をしてレクチャーに臨んだのです。

当時私は59歳、定年まで1年余でした。

(共産党では)

通常政策秘書は定年後も65歳くらいまでは延長されるのが慣例でしたが、

どういう訳か私の場合は60歳と決められていたので、迷いはありませんでした。

そのレクチャーには警察庁外事課も同席しており、

「警察関係者と昼食を取って、、、」と追求され、

はじめから「除名」ありきの20時間に及ぶ党内取調べを受ける事となったのです。

私としては表彰されこそすれ、

お叱りなんぞを受ける筋合いはないと考えていましたので、

党との対立は一層深まりました。

政府がこの頃47~48名の拉致被害者を把握していたのは確かです。

しかし救出に向けた具体的な行動は皆無でした。

調査の為のプロジェクトチームを発足させる事すら出来ませんでした。

なぜなら、(拉致解決を)声高に標榜しても

対抗手段としての軍事力の行使が出来ない以上、

窮地に陥るのは日本であるという考え方が、

与野党を問わず支配的だったからです。(つづく)

9月 14

(兵本氏の発言のつづき)

そこで党に決済を仰いだところ「中止」を強く勧告され、

私としてもここまで来て後戻りできませんでした。

そこで折衷案として

「交渉の一方当事者になってはいけない、趙氏に会うところまでなら許可する」

という事で現地に赴く事になりました。

しかし、現地に着いてみると、

急に別所氏から「頼むから一緒に来て欲しい」と懇願され、

同行する事になってしまいました。

ポートターミナル内にて朝鮮総連国際部の人に、

カン・ジュイリーとの面会を申し入れましたが、

「この船に日本政府と交渉できる人物は乗船しておりません」と言われ、

どうしてカンの事を知っているのか?と執拗に質問されました。

この事は後に総連内でも大問題となったそうです。

私の行為は、党が付与した権限を大きく逸脱したとして、

後に私の除名に関する直接理由とされてしまいました。(つづく)

9月 13

(兵本氏の発言のつづき)

平成6年(1994年)には石高氏(テレビ朝日プロデューサー)より、

安明進(アン・ミョンジン)の事を聞き、国会内で証言の概略を入手しました。

そして市川修一さん(1978年鹿児島県の海岸で婚約者の増本るみ子さんとともに

拉致された)に関する証言がかなり正確だった為、

安明進なる亡命者の証言自体がどの程度の信憑性があるものか、

韓国大使館に出向いて問い合わせる事にしたのです。

驚いたのは韓国大使館の方で、随分と戸惑ってはいましたが、

安企部所属の外交官から

「嘘や偽りはありません、おそらく拉致問題についても同様です」

との返事をえました。

この事が後に党内における私の立場を危うくしていくのですが、、、。

更に翌年4月頃、神戸在住の故・趙龍雲(チョウ・リョウウン)さんから

「阪神地区のカンパ集めを目的として、

万景峰(マンギョンボン)号が神戸港に入港する。

同船には、

労働党統一戦線部第一副部長のカン・ジュイリーが乗船しているはずだから、

直接会って救出交渉をすべきではないか」と勧められ、

当時の外務省アジア局長加藤哲夫氏と懇意だったので相談したところ、

北東アジア課長別所浩郎氏を紹介され同行する事になったのです。(つづく)

9月 12

質問 家族会結成に関して、

共産党は何らかのアクションをとったのでしょうか?

兵本氏 アベック拉致事件の調査開始以来、個人的には深く関与し、

家族会の結成にも積極的に関わりました。しかし党は何もしていません。

それどころか橋本議員自身が記者会見に出席せず、私が司会をしたのです。

集まった記者達の多くが怪訝そうな目で私を見ていたのを覚えています。

どうも橋本氏は「深入りするとヤバイ」と腰がひけていた節があります。

質問 日本共産党の北朝鮮に対するスタンス、

とりわけ「拉致事件」に関わる考え方はどのような変遷を経たのでしょうか?

兵本氏 個人的に動き始めたとは言え、党にお伺いをたてました。

当時書記局国際部の朝鮮問題のエキスパートだった

吉岡吉展(よしおかよしのり)氏に相談を持ちかけたところ、

「人道問題であり、政治的な問題と絡めてはならない。

政府・警察を追及するのは良いが、共産党としてやるべきではない。」と

釘を刺されました。

また、政策秘書として質問準備の為の経費は

党から支給される事になっているのですが、

出張許可を申請してもなかなか決済してくれず、

「国会(委員会)に間に合わないから」と催促しても取り合わないので、

結局自腹を切る始末でした。(つづく)

9月 11

質問 有本家を訪問されたおり、

「党の諒解」に言及されたそうですが、

どのような「諒解」だったのでしょうか?

兵本氏 党の諒解と言った覚えはありませんが、

いずれ国会で取り上げるであろうから、

その為の調査であると言ったと思います。

質問 法務委員会の傍聴の為、有本さんを含む家族を招聘されましたが、

どの家族を招聘されましたか?

そして、何故この法務委員会における質問が流産したのですか?

兵本氏 昭和63年(1988年)新潟・福井・鹿児島の

3組6人の救出について調査しました。

以後一貫してご家族に対し、

「共通の被害者なのだから、被害者の会をつくるべきだ」と

10年来訴えていましたが、当時ご家族には

「同一グループによる犯行=共通の被害者」という認識は薄かったのです。

その後のマスコミ報道により徐々に、そういう機運が醸成され

「家族会」結成に至る訳です。

ですからこの時の呼び掛けは、

3組6人のご家族と有本さんに対して個別にお話しました。

唯この時点では有本さんの件に関して、証拠に乏しく確信が持てませんでした。

法務委員会が開かれなかったのは、圧力でも何でもありません。

単に法務大臣が出席を取りやめた為に延期され、その後別の問題が提起されたので、

結果的に流産してしまったに過ぎません。(つづく)

9月 10

兵本達吉氏本人に訊く、その真相

明弘さんが強く感じておられる「憤激」は、

おおいに共有できるものであり、むしろ教えられる程である。

筆者<救う会兵庫 長瀬代表>は今回のお話を伺って、

「きっと共産党内部においても、

橋本議員の周辺に圧力が掛かったに違いない」と早合点し、

なんとしてもその真相に接してみたいという強い衝動に駆られた。

兵本氏は現在、共産党を除名となった後、

全国協議会の幹事会推薦幹事<当時>として

運動の最前線に立っておられる。

不躾とは思ったが率直に質問してみようと思い立ち、

電話をさせて頂いた。

以下に質問の骨子を要約してみた。

質問 有本明弘さんが平成7年3月に橋本事務所を訪問されてから、

翌年2月の法務委員会までの間にどのような党内論議があったのでしょうか?

兵本氏 党自体は何もしていません。

あくまでも個人的な関心から始めたのです。

法務委員会とは毎週火曜日と木曜日に問題提起の場がもたれた上で、

関係者を出席させて質問する事になっていますが、

実際にはなかなか話題がないのが実情です。

たまたま日本海アベック拉致事件を調査していて、

意図的な「拉致」と確信するようになり、

調査に乗り出したのです。

始めの頃は勝手にやっていました。(つづく)

9月 7

兵本氏は電話で

「まず横田めぐみさんの件を取り上げ、

後にリ・ウネに関わる議事録(昭和63年参院予算委)の事を質して、

恵子さんの事件を取り上げる二段戦術で迫る」と

論法についての概略を説明した後、

「被害者の各家族へも連絡していますので、

有本さんにも傍聴して欲しい」と上京を促した。

ときは2月20日の法務委員会とされた。

しかし、直前になって質問は中止となった。

有本さんご夫妻が上京への旅支度を整える中の唐突な中止連絡だった。

明弘さんがテレビ朝日の石高プロデューサーにその訳を訊ねると、

「法務委員会そのものに

橋本首相が出席しない事になった為ではないか」と諭された。

明弘さんはその頃「そういうものか」と半ば諦めていたそうだが、

今は確信をもって否と言い、

共産党をも巻き込んだ「金丸外交」の悪弊により、

朝鮮外交はすべて誤りであったと断言されている。

その強い憤りの込められた発言は、個人的な次元を超え、

社会性を帯びて聴く人の心を捉える。

明弘さんにとって、橋本質問のその後は

「国益無視の朝鮮外交」への憤激と批判が、

確信となる段階で重要だったのではないだろうかと、私たちは推測する。

幻に終わった法務委員会の翌月、

「家族連絡会」が結成され有本さんも未認定(当時政府が認定していた

7件10名には含まれていなかった)ではあったが参加するに至るのである。(つづく)

9月 6

平成7年3月、橋本敦代議士の議員事務所を訪れた明弘さんは、

対応した秘書・島村氏に議事録の写しを示して、

恵子さんの事件とその後の経緯を説明し、

「先生が国会質問された頃はリ・ウネ(大韓航空機爆破事件犯人、

金賢姫の工作員教育課程における日本人教育係)のことについては

まだはっきりとはしておりませんでした、

しかし今はもう田口八重子さんであると判明しています。

どうかもう一度質問して頂いて、

娘の事についてご協力して頂けないでしょうか?」と懇願した。

島村氏は本人に取り次ぐ事を約束し、明弘さんは神戸への帰路についた。

数日後、橋本代議士本人からハガキが届き、

「私で良かったら協力させてもらう」という趣旨の事が綴られていた。

早速、同代議士の秘書と名乗る兵本達吉氏という人物から連絡が入った。

その後、兵本氏は熱心に有本夫妻からの聴き取り調査を実施した。

神戸の有本さん宅にも脚を運んだ。明弘さんの記憶では、

来訪した兵本氏は、「党の許可を得た上での行動です。」と

ご夫妻に明言したそうである。

同年秋の臨時国会にて取り上げられる可能性もあったが、

年を越して平成8年の春、いよいよ橋本代議士が質問に立つという事になり、

有本さんへも連絡が入った。(つづく)

9月 5

父、明弘さんの確信

本紙25号記載、昭和63年3月26日の参議院予算委員会における、

共産党の橋本敦議員<当時>の質問は、

「拉致事件」に関する初めての国会質問と称するに価するものであった。

同委員会では竹下内閣の宇野外相及び梶山国家公安委員長が

明確に事件を認めた上で、事件性とその緊急性に言及していたのである。

ご夫妻が恵子さんの生存情報を手にしたのは、同年(1988年)9月であり、

暗中模索の中あらゆる可能性を考えて東奔西走していた頃、

既に政府や国会は「拉致事件」を知っていたという事になる。

もちろん恵子さんの事件そのものは委員会議事録には見当たらない。

しかし、斯くも明瞭に「北朝鮮の国家意志」による事件を認めておきながら、

再三にわたるご両親の陳情に対し、外務省をはじめとする政府機関、

官僚、国会議員、マスコミの冷徹な態度は理解できない。(つづく)

9月 4

「拉致事件」というファクターを通して世間を見れば、

言動に重大な結果責任が付随する立場の人々、

「政治家」「官僚」「マスコミ」等の中には、

大きな道義的責任を負うべき人々が大勢居る。

彼らの犯した罪は、

それぞれが属する社会や背景によって様々に分別できるが、

共通しているものは「国益への背任」であろう。

有本さんご夫妻は、愛娘恵子さんと引き裂かれて以来19年<当時>、

同時期に殆どの国民が現在進行形で「危機」を実感することも、

ましてや自らが生まれた社会を疑うなど考えも及ばずに生活していた中で、

その罪を実害として被った稀有な経験をされた。

ご夫妻が耐えがたい苦痛と引き換えに経験されたそれは、

抽象的で捉えどころのない「戦後の歪み」を、叙事的に描き出している。

私たちは未だその歪の真っ只中に在る事を忘れてはならない。(つづく)

9月 3

「流れ」は変わった。そして、そこには明らかな分水嶺が在った。

3月11日の八尾恵さんの謝罪と告白が全国に放映された事と、

翌日の金子(赤木)恵美子第2回公判における証言がそれである。

今やメディアは挙って「北朝鮮問題」を語る様になり、

かつての「帰国事業」に対する批判にまで遡及するものまで現れ、

北の擁護者は急速に力を失ったかに見える。

私たちは今の世情に諸手を挙げて歓喜すべきなのか?

これは状況が変化したに過ぎず、

安定した東アジア新秩序が訪れた訳でもなければ、

拉致事件解決の光明が灯った訳でもないのである。(つづく)

9月 2

このシリーズは、昭和58年(1983年)語学留学の途中に立ち寄った

コペンハーゲン(デンマーク)から、ピョンヤン(北朝鮮)へ拉致された

有本恵子さん(当時23歳)の両親に対する、

「救う会・兵庫」スタッフによる聴き取り調査に基づくドキュメントである。

「流れ」は変わった

7月25日(木)<平成13年>脱北した帰国者・李昌成氏が参考人として

出席する衆議院安全保障委員会に、有本さんご夫妻が、

救う会全国協議会幹事の西岡力氏<当時>ら関係者と共に参考人として出席した。

また、先にカナダにて開催されたサミットでも取り上げられ、小泉首相<当時>が

各国首脳に「拉致事件」解決への協力と理解を要請した事も記憶に新しい。(つづく)

9月 1

(解説)

27日の公判では、よど号グループの妻たちが

モールス信号や乱数表を用いて、北朝鮮の指示を仰いでいたことや、

八尾さんが横須賀市内に飲食店「夢見波」を開店させた理由が、

自衛隊などの動向を調査するためだった事などが明らかにされた。

本証言を受けて、3月12日には自民党衆議院議員であり

日朝議連・拉致議連の会長(3月25日に辞任)の中山代議士<当時>が、

有本さん宅に電話をかけ「救う会の活動をとるのか、私をとるのか」

と恫喝に等しい事を嘉代子さんに伝えた。

嘉代子さんは中山代議士<当時>に対し、「家族会で一緒にやっており、

全員が無事帰ってこられる様に皆でやっているのだから、

自分達だけ特別な扱い(平壌に行って会ってくるような事)は出来ない」と伝え、

「救う会の方をとります」と答えた。

これは24日の「緊急報告会」にて明らかにされた。

なお、中山発言に前後して、

「非公式ながら有本恵子さんの無事を北朝鮮が認めた」という報道があったが、

ご両親は「帰国して、この国で会う。」ときっぱり。

北朝鮮は未だ恵子さんの肉声をご両親に伝えていない。

確たる証拠なしにかの国と交渉する事が、如何に馬鹿げているか、

もういいかげんにマスコミや、政府、国会議員は学習したはずだが・・・。

(特別号「日本赤軍よど号犯の妻、金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録おわり。

次号につづく)