カテゴリーアーカイブ 拉致問題の真相ードキュメント

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第3章 幻の記者会見

平成12年暮れ、「よど号事件の犯人の家族、帰国実現か?」、「重信房子、逮捕!」、

いずれも日本赤軍に関するニュースが世間の耳目を集めた事は記憶に新しい。

 年明け早々の正月2日(平成13年)、神戸市長田区の有本さん宅を訪れた。

父明弘さんは開口一番、

「彼ら(よど号の妻たち)には、

(拉致事件の)真相を明らかにする義務があるのでは」と不快感を顕わにした。

 娘との再会を信じ、

18年目(平成13年当時)を迎えた両親の心にある”怒り”の本質は何なのか?

「拉致事件」の存在こそ世間の知るところとなった昨今だが、

多くは知らされていない。

 ”よど号の妻たち”が語るべき真実はおろか、

関わりすら伝えるマスコミは皆無と言っても過言ではない。

本編(第3回)からいよいよその真実に肉迫する。

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第2章 口止め3

 母は「とにかく娘は生きている。

何がどうなっているのやらさっぱりわからないけど、

何とかしなくては」と当時の興奮と不安を表現した。

傍らで終始無言だった父も「言うなと言われても、

もう娘の事は頼んでいたので警察へはIさんの事を話した。

すると執拗にその写真と手紙の提供を求められて、

随分困惑した」と警察との生々しいやり取りの一部始終を語り始めた。

事件はこの直後から再び県警外事課が担当する。

 県警は数年後、

北朝鮮の工作員と恵子さんが一緒に写っている写真を

”確たる証拠がある”として両親に提示した。

しかし、警察は恵子さんの生存をいつから知っていたのだろうか?

提示された写真は1983(昭和58)年7月16日にコペンハーゲンの

カストロップ国際空港のロビーで、

現地捜査当局がマークしていた、

キム・ユーチョルなる人物を撮影したものだった。

更に、恵子さんはこのとき偽造旅券を使わされたという事まで確認されている。

 両親は12年前のこの時点で”拉致事件”の存在など知る由もない。

それどころか前出北海道のハマダ氏の

”口止め”にも一点の疑念も抱かなかったという。

娘の身を案じればこそ当然であるが、

娘との再会を信じて迅速に行動した。

そして先ず、

当時社会党の衆議院議員・土井たか子の地元事務所(西宮市今津)へ

赴くのである。。。。。(つづく)

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第2章 口止め2

五年前に届け出た恵子さんの失踪事件は、

このころには県警外事課から一旦所轄の長田署へ所轄が移り、

海外行方不明邦人の照会が、時折もたらされていた頃なので

、あまりにも唐突な情報だった。

その事を知ってか知らずか「Iさん」は

「決して警察やマスコミなどには公言しないで下さい。

それと、社会党(現社民党)の方にお知り合いが

いらっしゃれば相談して下さい」と申し入れて話を終えた。

その数分後のことである、

時間を計ったようなタイミングで再び有本家の電話が鳴り響いた。

電話の主は、社会党北海道支部のハマダと名乗る男性だった。

彼はまるで「Iさんと」の会話を聞いていたかの如く

「とにかく本人の安全を考えて、くれぐれも他言無用」と

念を押して早々に電話を切ったという。

両親は今に至る十七年間、様々な人々と会い奔走を続けるが、

このハマダ氏と話したのはこれっきりだった。。。。。。(つづく)

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第2章 口止め1

恵子さんの失踪から五年が過ぎようとしていた

一九八八年(昭和六十三年)九月、

生存を信じる家族のもとに思いがけない情報がもたらされた。

それは「Iさん」という北海道に在住している女性からの一本の電話だった。

彼女の話は、想像を遥かに越えた内容で、にわかには想像できないものだった。

「行方不明だった私(Iさん)の息子が、北朝鮮の平壌で生存しているという手紙を受け取りました。

三人の日本人と共に生活しているそうで、その内のお一人が有本さん、

あなたのお嬢さんです。

写真も同封されていましたのであとで送ります・・・」

母は必死で記憶の糸を辿った。

「たしか最後の連絡はコペンハーゲン、

ヨーロッパで市場調査の仕事を手伝っていると言っていたはずが

どうして北朝鮮に居るのかしら?」。。。。。(つづく)

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第1章 ロンドンからの手紙3

今春(平成12年)のロンドンからの手紙は、

相当額の預金残高を残し十八年間手付かずの口座を不審視した英国当局が

、同銀行に問い合わせたものが照会されて来たものである。

すぐに神戸の支店を訪れたが「支店が違う」と門前払い。

やむなく知人を介し東京の本社を通じて

「北朝鮮による拉致事件に巻き込まれたので、

口座は日本へ移設してほしい」と要請した。

すると「政府機関の証明がなければ不可能」と返答され途方に暮れていたという。

最終的には様々な配慮が為され事なきを得たものの、

一連のやりとりが有本夫妻を苦悩の原点へとフラッシュバックさせた。

母はなおも続ける。「県警外事課へ捜査依頼を出したら、

次々と海外で亡くなった日本人女性の身元照会を受けました。

だから私は言ったんです。

亡くなった方のお話ならもう結構です。娘は生きていますから・・・」

その後、

両親が娘の平壌での生存を知るのは、昭和六十三年九月のことである。

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第1章 ロンドンからの手紙2

 両親は一切援助しなかったという。

「それで諦めるに違いない」と考えての事だ。

しかし気丈な性格の恵子さんは、

幼い頃より慕っていた父明弘さんの妹Sさんを頼りにしつつ渡航の準備を始めていた。

Sさんは物心両面で彼女を支え、恵子さんもまた多くの悩みを打ち明けていたに違いない。

それがまさかこんな事になるとは・・・Sさんもまた悲劇の渦に巻き込まれていくのである。

「私たちは最後の最後まで反対したんです」と母の声は震えていた。

恵子さんの決意は固く、彼女は旅立った。

ロンドンでの生活費、学費のすべてを賄うために、

見知らぬ土地で彼女はベビーシッタ-として子供たちに接しながら頑張っていたという。

反対を押し切っての渡航であればこそ手紙は欠かさなかった。

約束を大幅に過ぎた約一年半後の昭和五十八年十月、コペンハーゲンで消息を断つまでは。(つづく)

『恵子、お母さんは待っていますよ!』第1章 ロンドンからの手紙1

 今年(平成12年)春先、東京三菱銀行ロンドン支店から一通の英文の手紙が有本家に届いた。

母嘉代子さんは「娘に関する事だ」と直感したという。

愛娘恵子さんは昭和五十七年四月、「半年だけ」と言い残し親元を離れロンドンへと旅立った。

十八年の歳月を経てもなお、母の目にははっきりと面影が映っているのだろう。

恵子さんの『実像』を語る母の傍らで涙を堪える父明弘さんの姿がそれを如実に物語っている。

十九歳の女性が語学留学を夢見るのは当時でも珍しくはない。

しかし彼女の場合はそんな恵まれた話ではなかった。

両親は渡航を決して許さなかったのである。

彼女は神戸外国語大学の二部に通いながらアルバイトですべてを賄おうと必死だった。

大阪の国際語学センター(現在閉鎖)の学費もすべて自分で捻出した。(つづく)

『恵子、お母さんは待っていますよ!』プロローグ

約10年前、まだ5人の拉致被害者も帰国を果たしていなかった頃、

同志の皆さんと、

「グローカルひょうご」というミニこみ誌を作成していましたが、

その中で『恵子、お母さんは待っていますよ!』と

題する有本恵子さん拉致にまつわる連載を行ったことがあります。

これから本コーナーでは、

その時の連載を筆者である長瀬猛さんの了解も得て掲載してまいります。

非常に重大な内容が含まれています。是非ご一読ください!