問題点
(韓国の司法当局への告白について)
・韓竜大と曹廷楽の両名に共通する供述の中に、
「韓国へ行って当局に洗いざらい話した」という
くだりが存在する。
さらに、曹の話によれば、韓国での供述に基づき
日本の警察も聴取にやって来て、それに応じた
とある。
・これが真実ならば、日韓の超法規的捜査協力の存在が
疑われる。
・また、日本の警察にも、、、ということになれば、
一種の司法取引が超法規的に為されたということに
ならないか?(問題点おわり 以下つづく)



問題点
(韓国の司法当局への告白について)
・韓竜大と曹廷楽の両名に共通する供述の中に、
「韓国へ行って当局に洗いざらい話した」という
くだりが存在する。
さらに、曹の話によれば、韓国での供述に基づき
日本の警察も聴取にやって来て、それに応じた
とある。
・これが真実ならば、日韓の超法規的捜査協力の存在が
疑われる。
・また、日本の警察にも、、、ということになれば、
一種の司法取引が超法規的に為されたということに
ならないか?(問題点おわり 以下つづく)
問題点
(田中実さんの出国に関する疑問)
・韓竜大の告発について、警察は
「出国記録ならびにパスポート申請記録を
探しているが、当時はすべて紙媒体であり、
保管されていない可能性が高い」として、
物証がないと言わんばかりである。
しかし、それならば、
平成8年12月の兵庫県議会警察常任委員会における
警備部長答弁では、何故
「昭和53年6月6日」出国と認めたのか?(つづく)
曹廷楽告発へ
・曹は当初激しく抵抗したが、すぐに落ち着きを取り戻し
着席して私たちの質問に答え始めた。
やり取りは1時間以上に及び、概ね以下のような理由から、
私たちは曹の告発へ踏み切る決意を固めた。
①田中実さんが拉致されていること自体は否定しない。
②平成14年韓国へ渡り、当局へ身の上を告白している。
韓竜大は2年前にそれを終えている。
③名誉を守る手立てを講じない理由はなかった。
④肝心な部分は否認するのではなく、韓竜大に訊け、とはぐらかす。
⑤文書による回答を求めた質問状にまともに答えようとしない。
⑥罪名罰条は前回同様に、平成15年7月22日に提出した。
受理は約10日後だった。(韓竜大告発へ終わり 以下つづく)
曹廷楽告発へ
・平成15年6月、
ある雑誌社から直撃取材同行のオファーを受けた。
「この機を逃してなるものか」
私、長瀬と岡田氏の2名は躊躇なくこれを承諾、
直ちに山形へ飛んだ。
(FRIDAY2003年6月20日号参照)
・張り込み3日目、
奇跡的に温泉へ出かける曹をキャッチ、
直撃取材が成功した。(つづく)
曹廷楽告発へ
・曹は事件を主導したと考えられるだけに、何としても
それを裏付ける新たな証拠を入手しなければならない。
しかし、もはやそれは、民間人の領域を踏み越えており
不可能に思えた。
・「何故反論しないのか?」本人に訊くのが一番ではあるが、
山形県から1軒の家を探し当てるのは容易ではない。
ここでも張氏の日記が活躍して、まず曹が経営する
遊技場の所在地が判明し、各地の関係者にも御協力頂き、
ついに曹の自宅を突き止めたのであった。(つづく)
曹廷楽の告発に向けて
(張龍雲氏の置きみやげ)
・しかも、当該民事紛争は
結果的には曹に軍配が上がっているにも関わらずである。
・張氏の日記は、
我々が曹を告発するために大きな置きみやげとなったのである。
我々は準備に着手した。」
曹廷楽の告発に向けて
(張龍雲氏の置きみやげ)
・以下は情報提供にあたり秘匿を約束したため、
実名は差し控えるが、
その関係者は長瀬の申し入れを快く承諾くださり、
張氏が遺した膨大な量の日記を貸して頂いた。
・中には、
大乗寺事件や十文字山事件といった、
関西の在日社会で起こった経済事件(詐欺)に関する記述も多いが、
中でも特筆すべき資料を発見することができた。(つづく)
曹廷楽の告発に向けて
(張龍雲氏の置きみやげ)
・田中実さんに関わる原点は、
言うまでもなく張龍雲氏の告白であり、
その著書「朝鮮総連工作員」である。
しかし、刊行物に著された内容には、犯罪を立証するだけの証拠価値があるのか否か、
その疑念は当初から私たちの心を惑わせた。
・張氏の死去から2年近く経っていたが、
そういえば、
「分からないことがあれば、いつでも尋ねなさい」と言われて
受け取った名刺があったことを思い出し、
思い切って訪ねてみることにした。(つづく)
曹廷楽の告発に向けて
(張龍雲氏の置きみやげ)
・それは、平成9年(1997年)1月に山形県下で起こった、
張氏と曹の民事紛争に関わる告訴状の写しであった。
内容は、「洛東江」という組織名をあげて、
曹が非合法組織の幹部であり、その活動の一環として
資金集めを行ってというものであった。
・ということは、平成8年から9年にかけて、
月刊誌や単行本による表現と、利害の対立する法廷における一方的な表現により、
著しく名誉を傷つけられている訳で、
当然のことながら、その対抗処置として、
名誉毀損等の告訴を行ってしかるべきところを、
何もやっていないのである。(つづく)
韓竜大の告発(つづき)
・田中実さんが姿を消した後、
オーストリアからの国際郵便が金田さんへ届けられた。
差出人は田中さん。
内容は「オーストリアは良い所だから、
君もこっちへ来ないか」という誘いだった。
金田さんは筆跡に疑いを持ち、
この証言者にそれを打ち明けていた。
しかし、
この誘いを受け入れてしまった金田さんは、
渡欧準備のために上京することになり、
何とあの中華料理店「来大」で送別会が開かれたそうである。
・上京した金田さんは音信不通となり、
約半年後に証言者の近親が「来大」の韓を詰問したが、
韓は「知らない、
分からない」といった要領を得ない返事に終始した。
・以上の内容を、
国外移送目的略取等(刑法226条)を罪名および罰条とする、
告発状に添付して、平成14年(2002年)10月4日、
兵庫県警に提出した。受理は奇しくも10月15日、
拉致被害者5名が帰国した日であった。
韓竜大の告発へ(つづき)
・田中実さんが育った施設関係者の証言、
張龍雲氏が「拉致工作」を告白した横田さん夫妻へ宛てた手紙、
そして渡辺先生の証言、
しかし、
事件性をうかがわせるものがなく、
途方にくれたが、
同郷の岡田氏が執拗な調査を続けて、
ついに決定的な証言を得た。それは、
田中実さんと同じ施設で育った後輩の金田竜光さんを、
一時期雇っていた雇用主の関係者によるものであった。
証言者と金田さん、
および周辺関係者は、
田中実さんの働いていた中華料理店「来大」へ頻繁に出入りしており、
金田さんは金ちゃんと呼ばれ親しまれていた。(つづく)
韓竜大の告発へ
・小泉首相の訪朝後の11月、
日朝国交正常化実務者会議が開かれ、
日本側が複数の拉致被害者を照会した。
何かの集会に参加していた平沢勝栄衆議にお会いした折、
田中実さんはどうなったのですか?
とお尋ねしたところ、
そのリストの最前列で照会してあるとのことであった。
しかし、
拉致認定される様子は全く感じられなかった。
・この機に及んで未だ消極的な国に対して、
もっと強力に訴えられるものはないか、
策をめぐらしてたどり着いたのが「告発」であった。
・「相手を訴える法律知識(自由国民社)」を参考にして書面を整えるという、
誠に稚拙な行為ではあったが、
可能な限りの証拠集めに奔走することになった。(つづく)
「渡辺友夫先生、韓を直撃する!」
渡辺友夫先生は、
平成15年4月、八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を直撃。
しかし、実は、これが2度目の訪問であった。
この2ヶ月前にも同じ場所を訪れ、
面会を試みるも失敗。
やむなくあきらめ、帰らざるをえなかったのである。
(講談社FRYDAY03.5.27に詳しい)
<救出活動の経緯>
(3)恩師・渡辺友夫先生
・田中実さんが在学していた頃の神戸工業高校の技術課程は、
1年から卒業までの3年間クラス替えはなかったそうである。
それ故に田中さんのことを覚えているクラスメイトも多い。
ただ卒業から40年近く経って、それぞれの人生を歩んでいる同窓生たちが
名乗り出るのは困難なことであり、私たちもそれは自覚していた。
しかし、そんなことは全くものともせずに立ち上がられた人がいる。
3年間担任教師であった渡辺友夫先生である。
・学校OBに知己のある知人を介して、
「自分が田中の親代わりに」という渡辺先生の申し出を受け、
早速長瀬救う会・兵庫代表が先生のお宅へ赴いた。
・御高齢にもかかわらず、かくしゃくとされた方である。
挨拶もそこそこに田中さんの思い出を語られた。
「彼は施設から通っていたので、常に気をかけていました。
当時の同級生には同じ境遇の者はいなかったので、心配したのですが、
屈託のない笑顔を見せる奴でした。
しかし、弁当が(施設で提供される)小さくて粗末なものだったので、
職員室に呼んでおかずを分けてやったりしました、、、」
ひとしきり語り終えた先生の目は、涙で一杯だった。
・以後、渡辺先生には、あらゆる場所にお運びいただき、
田中実さん救出のために御尽力いただいた。
そして、
ついには、青森県八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を訪れ、
直接お会いいただいたのである。
同行した某雑誌の記者によれば、へらへらとはぐらかす韓に対して、
渡辺先生は掴みかからんばかりの勢いであったそうである。
(その時の様子については、FRYDAY平成17年5月27日号に詳しい)
<救出活動の経緯>
(2)田中実さんの写真公開
・平成14(2002)年は、3月には八尾めぐみ氏が有本さん拉致を証言。
9月には小泉首相が訪朝。
何ともドラスティックに変化した感のある年だったが、
その陰で田中実さんに関して重大な事実が発見された。
・田中さんと同い年の岡田和則氏(当時、救う会・兵庫のメンバーとして活動。
現在、特定失踪者問題調査会常務理事)が、同じ学区(中学校)だったことが判明。
岡田氏は中学校から私学に進学したが、多くの同窓生は田中さんと同じ鷹匠中学校へ入学しており、
そこで田中さんと同窓になったのである。
“灯台下暗し”とはまさにこのことであった。
・岡田氏が早速同窓生に呼びかけたところ、あどけなさの残る中学生時代の田中さんの写真が
手に入ることとなった。
それが声明とともに公開された1号写真だったのである。
・9月16日の「総理訪朝緊急国民大集会」開催直前、
日比谷公会堂の楽屋で開催された幹事会は、異様なまでの緊張感に包まれていた。
訪朝直前の家族との面会を拒む小泉首相に、語気を荒げる関係者も少なくなかった。
その最中に1号写真の掲載されたチラシは披露されたのである。
・しかし、事態はこれで終わらなかった。
小泉首相が機上の人となり、私たちも帰路についた同日、
また新たな証拠がもたらされたのである。
・何と高校時代の卒業アルバムがもたらされたのである。
そこには、1号写真からはうかがい知ることのできない、
生き生きとした男子としての田中さんが収められており、
その豊かな表情は私たちの認識を一変させた。
「田中実さんは生きている!」
・帰国した小泉首相が、「5名生存10名死亡」と家族に告げたその夜、
私たちは憤りにうち震えながらも、皆同様に
「このままでは田中さんは見捨てられてしまう」
との思いを禁じえなかった。
・9月22日、緊急報告会として有本さんに御登壇いただいた後、
数種類の2号写真をマスコミに公開した。
その2号写真は衝撃をもって受け入れられたらしく、
各紙に田中さんが大きく取り上げられることとなった。
さらに情報は寄せ続けられたのである。
<救出活動の経緯>
(1)張龍雲氏との出会い
・平成12年(2000年)秋、神戸市内において、或る団体の
設立記念式典が開催され、記念講演の講師として張龍雲氏が
登壇された。
私たち「救う会・兵庫」の活動にも理解を示していてくれた
その主催団体は、同年3月に家族会と救う会が実施した
「北朝鮮への50万トン米支援・反対抗議行動」
いわゆる「座り込み」に関する報告の場を提供してくれたのであった。
・「救う会・兵庫」はその催しの楽屋で張氏と初対面の挨拶を交わした。
張氏はすでに持病の糖尿病がかなり進行していると語り、
もっと早く皆さんと会っておけば良かったと云って、
長瀬代表の手を握られた。
車椅子から降りる時も奥様の介添えを必要とするほど、その病状は
相当進行していた。
いつでも分からないことがあれば尋ねなさい、と言って名刺を
差し出されたが、その約半年後、張氏は帰らぬ人となった。
・その日の講演内容は、その前年出版の「朝鮮総連工作員」に関する
内容であったが、特に田中実さんのくだりについては
詳しく言及されていた。
・それ以降、兵庫県下で実施する街頭署名活動においても、
有本恵子さんとともに田中実さんの名も連呼して
救出を訴えるよう努めることになった。
しかしながら、
田中実さんに関する世論の関心は極めて低く、
また、張氏の告白を補完するような新たな証言や証拠も
得られず、時の経過を許す日々が続くこととなった。
<田中実さん拉致事件の基礎知識>
(行政の認識)
・平成8年(1996年)12月12日、兵庫県議会警察常任委員会で
大前繁雄県議(当時)が、同月発売の「文藝春秋」を取り上げ、
「警察は何か情報を得ておられるのか?得ておられるのなら
お示しいただきたい。」と質問する。
・大橋警備部長(当時)は、「調査の結果、神戸市内に居住していた
同姓同名の人物が、昭和53年6月6日、成田から出国した後、
現在まで所在不明となっていることが判明している。
この人物が記事に云う当該田中実氏と同一である可能性は
否定できないと考えている。
県警としては、当該人物の行方について、拉致された可能性も含めて
慎重に調査しているところである。」と答えた。
<田中実さん拉致事件の基礎知識>
・平成8年(1996年)12月、平成9年1月号の「文藝春秋」に、
神戸市在住の在日・張龍雲(チャン・ヨンウン、故人)氏が、
自らが北朝鮮工作機関「洛東江」のメンバーであったことを告白して、
同組織の韓竜大(ハン・ヨンデ)と曹廷楽(チョ・ジョンガリ)が
共謀の上、昭和53年(1978年)6月6日、田中さんをウィーンに連れ出し、
モスクワを経由して平壌へ拉致したことを暴露した。
韓は田中さんが勤めていた「来大」の経営者だった。
・平成11年(1999年)には、「洛東江」の謀略を詳述した張氏の著書
「朝鮮総連工作員(黒い蛇の遺言状)」が小学館文庫から出版された。
張氏は平成13年(2001年)持病の悪化により他界。
◎これまで救う会・兵庫(代表:長瀬猛、副代表:大矢卓志)が携わってきた
北朝鮮による拉致被害者・田中実さんの救出活動について
何回かに分けて掲載します。
田中実さんのプロフィール
・昭和24年(1949年)7月28日生まれ、本籍神戸市東灘区
・幼い時に両親が離婚。
神戸市内の養護施設で育つ。
神戸市立高羽小学校、鷹匠中学校、神戸工業高校を卒業後、
市内のパン製造会社に就職するが退職。
失踪直前は阪神「青木」駅近くの中華料理店「来大」店員だった。
連載「恵子、お母さんは待っていますよ!」が長らく中断してしまっており、
大変ご迷惑をおかけしております。
多くの方々から「続きはどうなっているのか!」とのお叱りを頂戴致しました。
心からお詫び申し上げます。
(単なる言い訳に過ぎませんが、
かなり古い資料を引っ張り出してきての連載で、
今のところ、
どうしても続きの連載記事が記載された号のミニコミが見つからないのです。
もう少しお時間を頂きたくお願い申し上げます。)
他方、
有本恵子さん同様、
政府認定の被害者である田中実さん拉致事件と田中さんの救出活動について、
ぜひ掲載させて頂きたい内容がありますので、
関係者(救う会・兵庫)の了解を得た上で連載させて頂きます。
何とぞよろしくお願い申し上げます。
さて、将来この条約が発効したとして、自動的に、「軍事行動」が担保されるのかと言えば、「否」です。もし現状のまま事態が推移して、「軍事行動」を執ったならば、その時の総理大臣は、侵略を指揮したとして「人道に対する罪に相当すると規定」による訴追は免れないでしょう。 即ち、国際的共通認識を獲得しておくことが十分条件なのです。
近年、拉致被害者のご家族が世界各国へ出向いて、懸命なお訴えをしておられます。横田さんご一家が、ブッシュ前大統領と面会されたのも、国際連携という運動の一環でした。これはこれで効果があったことに異論はありません。しかし、軍事行動に必要な国際的共通認識を獲得したのかと言えば、補完的な効果しかなかったように思います。そして、その獲得が十分条件なら、補完されるべき「未着手の本筋」が必要条件となります。これこそが、拉致解決の為には、決して避けて通ることのできない「実行犯の検挙」なのです。
現在、我が国は拉致被害の規模を自ら明らかにすることなく、数多く潜伏している実行犯や協力者を一切検挙しておりません。わずかに北朝鮮に逃亡している実行犯を指名手配しているだけです。残念なことですが、実行犯や協力者の中に相当数の日本人がいます。そのことを知る報道機関も多いのですが、殆ど報じられていません。まさに闇の中の闇なのです。
この闇を放置したままでは、必要条件は永遠に満たされません。従って十分条件である国際的共通認識を獲得することも困難でしょう。「もし現状のまま事態が推移して、「軍事行動」を執ったならば、・・・」と先述した意味はここにあります。
私は、13年間の運動の中で、拉致実行犯と相対した経験があります。その人物は訴追されることなく今も一般人として生活しています。彼のような人物を国際法廷で証言させるならば、その効果は計りしれません。
私たちのこれからの運動は、この「未着手の本筋」を放置しつづける危険性を、実例を示して知らしめることではないでしょうか。いささか遅きに失しているとしても、後ずさりをしている暇はないのです。
「拉致はテロだ」という主張は、
9.17以降「経済制裁」を求める運動の枕詞となり、
私たちは疑うことなく、
そう染められたのぼり旗を掲げて、街頭に立ちました。
しかし、本当にそれで良かったのでしょうか。
まず、このたび批准に至った「強制失踪条約」の中身を見てみましょう。
この条約は、2006年12月20日の第61回国連総会で採択された条約です。
正式名称は「強制失踪からのすべての者の保護に関する国際条約」と言います。
この2年前には、
蘇我ひとみさんがお嬢さんとの再会を果たしており、
国際的な関心が拉致問題に注がれていました。
この条約は、明らかに北朝鮮を主たる対象にしています。
条約の概要は、次のように翻訳されています。
「国家機関や国の許可を得た個人又は集団が逮捕・拘禁・拉致などで個人の自由をはく奪する行為を強制失踪として禁止し、組織的で広範な強制的失踪は、人道に対する罪に相当すると規定する禁止条約。」
ここで注目するべきは、
下線部「人道に対する罪に相当すると規定する」という部分です。
第5条には、次の様に明確な定義がなされています。
「強制失踪の広範又は組織的な実行は、適用可能な国際法に定める人道に対する犯罪を構成し、及び当該適用可能な国際法の定めるところにより結果を得る。」
それでは、「当該適用可能な国際法の定めるところにより結果を得る。」とは、どういうことを指すのでしょうか。
思いあたるのは、オランダ・ハーグに設置された国際刑事裁判所です。
ここでは現在、コソボ紛争で発生した、虐殺についての審理が進められています。
同紛争の一方当事者であるセルビアに対し、
国連安保理による非難を根拠としてNATOが軍事介入、
大規模な空爆が実施されたのは、皆さんのご記憶にも新しいことと思います。
即ち「当該適用可能な国際法の定めるところにより結果を得る。」とは、
軍事的制裁を含む処置を排除しないということであり、
我が国と北朝鮮との関係に置き換えれば、拉致という強制失踪に対して、軍事行動もあり得るということなのです。
翻って過去の私たちの主張で叫ばれた「テロ」とは一体何を意味していたのでしょうか。
難しい戦争の定義は専門家におまかせすることとして、一般にテロと称されるものの内、
国際的な拡がりをもつものに対しては、「戦争」に含まれるというのが一般的となりつつあります。
その典型が9.11テロとアフガニスタン攻撃です。
しかし、
私たちが訴えていた「テロ」という言葉には、
「戦争」という意味は薄く、むしろそのことを曖昧にして、国民世論の拒否反応から忌避しようとしていたのではないでしょうか。
そして、
米国の「テロ支援国指定」や「北朝鮮人権法制定」を受けて、
米国を中心とする西側諸国による国際的圧力により、展開を打開しようと企図していたはずです。
安倍政権発足当時、私はそのように信じておりました。
今思えば、誠に愚かしいことであり、誤った世論誘導に与した責任の一端は私にもあると猛省しております。
私たちは、何者にも臆することなく「拉致は戦争だ」と訴えるべきだったのです。
私たちが、禅問答がごとき意味不明な言葉遣いをしているうちに、あっさりと批准された「強制失踪条約」は、
このように大変重い意味をもっているということがお分かり頂けたでしょうか。
故に、筆を取らせて頂いた次第です。
さる7月23日、
麻生政権は
国家による拉致の禁止などを定めた
「強制失踪(しっそう)からのすべての者の保護に関する国際条約」
(強制失踪条約)の批准書を
ニューヨークの国連本部に提出し、
締結手続きを終えた。
日本は12番目の締結国となった。
条約は拉致などを犯罪として処罰する内容で、
20か国の締結で発効する。
北朝鮮は締結していない。
この記事を目にしたときの「驚き」は、
私にとっては今年一番の出来事と言っても過言ではないほどのものでした。
今日は、
なぜ私がそれほどまでに驚愕したのかについて、
お話ししようと思います。
私たちは、
永らく「拉致はテロだ」と訴えて、
経済制裁に象徴される「国家意思の発動」を求めてきました。
この主張の論理について説明すると、
次の様に要約されます。
「我が国は、平成5年(1993)北朝鮮が核不拡散条約からの脱退と、
ノドンミサイル発射実験を相次いで強行したため、
翌年の国際原子力機関による北朝鮮制裁決議に基づき、
航空チャーター便の乗り入れ禁止などの
制裁処置を実施しました。
実際には被害の発生していない核とミサイルについては、
斯様に制裁を課しておきながら、
数多の被害者がいるにも関わらず、
拉致問題について、
何らの制裁を課す意思もないというのは如何なものか。」
我が国が「拉致はテロだ」という認識を、
内外に明らかにしたのは安倍政権になってからで
、平成14年(2002)9月17日の小泉首相の電撃訪朝と、
翌月に5人の被害者が羽田空港に降り立った、
あの劇的な場面を経てもなお、
政府は「拉致」を「テロ」だとは言いませんでした。
当時の福田官房長官が、
のらりくらりと「う~ん、ちょっと違うな」などと
はぐらかしていたのを、
鮮明に覚えています。
話は変わるが、
ブッシュ政権のパウエル国務長官は
14日の記者会見で、
「テロ実行犯だけでなく、それを支援する組織、かくまう国家に対しても武力行使は及ぶ」
と明言した。
「新たな戦争」が本当に「テロリズム」対「民主主義」ならば、
支援者の「市民」の方々には、
ご自宅の地下に防空壕の構築工事をお勧めする。
「人道」の名のもとに彼らを擁護する、
マスコミ関係者は直ちに出国して、
平壌支局からの放送に切り替えなければならない。
さもなくば東京や大阪が空襲されても仕方ない。
冗談みたいな話だが、
どこの先進国に
「テロリスト」の支援者を「市民」と訳すマスコミがあろうか、
彼らはれっきとした過激派であり、
テロリスト「日本赤軍」のシンパである。
金子の帰国が迫る今、
マスコミによる「人道」と「市民」の履き違えを厳しく監視する必要がある。
(第6章日本赤軍よど号グループ②おわり。以下つづく)
長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より
八尾恵氏が被告人だった頃、
「旅券返納命令違反」での起訴に対し、
「市民」団体などが人権擁護の立場から支援した。
約14年が経った今(当時)、
それが再現されようとしている。
金子恵美子に関しては
、早くも
「墓参もさせないとは・・・」
とか
「北朝鮮への入国に便宜を図った人物(キム・ユーチュル→カストロップ空港で有本恵子さんと一緒に居るところを撮影された工作員)を一方的にスパイと決め付けている」
などと、
前出「かりの会」をはじめとする国内支援者が発言している。(つづく
長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より
八尾恵氏の手記には、
「ハイジャック犯メンバーにも結婚相手を見つけて、
代を継いだ革命を
行っていかなければならない」
とする
金日成の“教示”
が発せられ(1977年5月6日)、
五六課が設置されたとある。
なお、
文中にある、
「本当はモンゴルに行きたかったのに・・・」と
胸中を八尾氏に吐露したという、
福留貴美子さん(岡本武の妻)は、
「よど号の妻」の中で唯一、
「本人の意思ではなく北朝鮮に来た人物」すなわち「拉致被害者」である
。(拉致の目的「いったい何の為に・・」おわり。以下つづく)
長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より
高沢氏の著書「宿命」によれば、
「日本人革命村」なる特殊施設にて、
日本人を培養していた目的とは、
「日本における金日成(主体思想)革命の実践」である。
これに従い、
第一世代(よど号グループ)から
第二世代(子どもたち)へと
コマンドを養成すべく、
「結婚作戦」、
「日本人獲得作戦」などという
、余りにもグロテスクな構想を、
国を挙げて取り組んでいた。
否、現在も進行中なのである。
(つづく)
長瀬 猛氏著作『恵子、お母さんは待っていますよ!』より