9月 17

今回の内容には極めて重大な

「政治の罪の一側面」が明らかになっている。

それは「拉致事件を公にして窮地に立つのは日本」という

「臆病風」の事である。

昨年有本夫妻は、塩川財務大臣<当時>に面会陳情のおり、

「何故政府はもっと強い態度で北朝鮮に要求しないのか?」と

質したところ、

「テポドンミサイルを打ち込まれたらどうするのか、

それが恐ろしいのです」という趣旨の発言があったそうである。

最近勧められて、

「北朝鮮大脱出・地獄からの生還(新潮文庫)」という本を読んだ。

これは宮崎俊輔氏という、在日朝鮮人を父、日本人を母にもつ人物が、

1960年に13歳で家族とともに「帰国事業」で北朝鮮に渡り、

辛酸の果てに1996年に脱出に成功して日本に帰国を果たす

壮絶な手記であるが、そこにこんな一文を見つけた。(つづく)

9月 16

政治の罪、その一側面

ODAにまつわる利権構造については、

鈴木宗男事件でにわかにクローズアップされているが、

その本丸は北朝鮮や中国にまつわるものであろう事は

衆知の事実と言っても過言ではない。

しかし平成8年2月20日の法務委員会における、

共産党の質問が流産に終わった背景を、

短絡的にそれと結びつけた私の早合点は、

兵本氏から伺った内容により、瓦解した。

「事実は小説よりもき奇なり」ということか。

兵本氏は平成11年(19999年)

1月号の「正論」誌の経緯を詳述されている。

今回のインタビュー内容は重複する部分も多く、

多忙を極める中でのご協力であった。

当方の勉強不足もあって一からご説明を頂き、

兵本氏には紙面を借りて心から感謝申し上げる。(つづく)

9月 15

(兵本氏の発言つづき)

その後、

拉致議連(旧)の永野参院議員(自民党)<当時>からレクチャーを求められ、

一大決心をしてレクチャーに臨んだのです。

当時私は59歳、定年まで1年余でした。

(共産党では)

通常政策秘書は定年後も65歳くらいまでは延長されるのが慣例でしたが、

どういう訳か私の場合は60歳と決められていたので、迷いはありませんでした。

そのレクチャーには警察庁外事課も同席しており、

「警察関係者と昼食を取って、、、」と追求され、

はじめから「除名」ありきの20時間に及ぶ党内取調べを受ける事となったのです。

私としては表彰されこそすれ、

お叱りなんぞを受ける筋合いはないと考えていましたので、

党との対立は一層深まりました。

政府がこの頃47~48名の拉致被害者を把握していたのは確かです。

しかし救出に向けた具体的な行動は皆無でした。

調査の為のプロジェクトチームを発足させる事すら出来ませんでした。

なぜなら、(拉致解決を)声高に標榜しても

対抗手段としての軍事力の行使が出来ない以上、

窮地に陥るのは日本であるという考え方が、

与野党を問わず支配的だったからです。(つづく)

9月 14

(兵本氏の発言のつづき)

そこで党に決済を仰いだところ「中止」を強く勧告され、

私としてもここまで来て後戻りできませんでした。

そこで折衷案として

「交渉の一方当事者になってはいけない、趙氏に会うところまでなら許可する」

という事で現地に赴く事になりました。

しかし、現地に着いてみると、

急に別所氏から「頼むから一緒に来て欲しい」と懇願され、

同行する事になってしまいました。

ポートターミナル内にて朝鮮総連国際部の人に、

カン・ジュイリーとの面会を申し入れましたが、

「この船に日本政府と交渉できる人物は乗船しておりません」と言われ、

どうしてカンの事を知っているのか?と執拗に質問されました。

この事は後に総連内でも大問題となったそうです。

私の行為は、党が付与した権限を大きく逸脱したとして、

後に私の除名に関する直接理由とされてしまいました。(つづく)

9月 13

(兵本氏の発言のつづき)

平成6年(1994年)には石高氏(テレビ朝日プロデューサー)より、

安明進(アン・ミョンジン)の事を聞き、国会内で証言の概略を入手しました。

そして市川修一さん(1978年鹿児島県の海岸で婚約者の増本るみ子さんとともに

拉致された)に関する証言がかなり正確だった為、

安明進なる亡命者の証言自体がどの程度の信憑性があるものか、

韓国大使館に出向いて問い合わせる事にしたのです。

驚いたのは韓国大使館の方で、随分と戸惑ってはいましたが、

安企部所属の外交官から

「嘘や偽りはありません、おそらく拉致問題についても同様です」

との返事をえました。

この事が後に党内における私の立場を危うくしていくのですが、、、。

更に翌年4月頃、神戸在住の故・趙龍雲(チョウ・リョウウン)さんから

「阪神地区のカンパ集めを目的として、

万景峰(マンギョンボン)号が神戸港に入港する。

同船には、

労働党統一戦線部第一副部長のカン・ジュイリーが乗船しているはずだから、

直接会って救出交渉をすべきではないか」と勧められ、

当時の外務省アジア局長加藤哲夫氏と懇意だったので相談したところ、

北東アジア課長別所浩郎氏を紹介され同行する事になったのです。(つづく)

9月 12

質問 家族会結成に関して、

共産党は何らかのアクションをとったのでしょうか?

兵本氏 アベック拉致事件の調査開始以来、個人的には深く関与し、

家族会の結成にも積極的に関わりました。しかし党は何もしていません。

それどころか橋本議員自身が記者会見に出席せず、私が司会をしたのです。

集まった記者達の多くが怪訝そうな目で私を見ていたのを覚えています。

どうも橋本氏は「深入りするとヤバイ」と腰がひけていた節があります。

質問 日本共産党の北朝鮮に対するスタンス、

とりわけ「拉致事件」に関わる考え方はどのような変遷を経たのでしょうか?

兵本氏 個人的に動き始めたとは言え、党にお伺いをたてました。

当時書記局国際部の朝鮮問題のエキスパートだった

吉岡吉展(よしおかよしのり)氏に相談を持ちかけたところ、

「人道問題であり、政治的な問題と絡めてはならない。

政府・警察を追及するのは良いが、共産党としてやるべきではない。」と

釘を刺されました。

また、政策秘書として質問準備の為の経費は

党から支給される事になっているのですが、

出張許可を申請してもなかなか決済してくれず、

「国会(委員会)に間に合わないから」と催促しても取り合わないので、

結局自腹を切る始末でした。(つづく)

9月 11

質問 有本家を訪問されたおり、

「党の諒解」に言及されたそうですが、

どのような「諒解」だったのでしょうか?

兵本氏 党の諒解と言った覚えはありませんが、

いずれ国会で取り上げるであろうから、

その為の調査であると言ったと思います。

質問 法務委員会の傍聴の為、有本さんを含む家族を招聘されましたが、

どの家族を招聘されましたか?

そして、何故この法務委員会における質問が流産したのですか?

兵本氏 昭和63年(1988年)新潟・福井・鹿児島の

3組6人の救出について調査しました。

以後一貫してご家族に対し、

「共通の被害者なのだから、被害者の会をつくるべきだ」と

10年来訴えていましたが、当時ご家族には

「同一グループによる犯行=共通の被害者」という認識は薄かったのです。

その後のマスコミ報道により徐々に、そういう機運が醸成され

「家族会」結成に至る訳です。

ですからこの時の呼び掛けは、

3組6人のご家族と有本さんに対して個別にお話しました。

唯この時点では有本さんの件に関して、証拠に乏しく確信が持てませんでした。

法務委員会が開かれなかったのは、圧力でも何でもありません。

単に法務大臣が出席を取りやめた為に延期され、その後別の問題が提起されたので、

結果的に流産してしまったに過ぎません。(つづく)

9月 10

兵本達吉氏本人に訊く、その真相

明弘さんが強く感じておられる「憤激」は、

おおいに共有できるものであり、むしろ教えられる程である。

筆者<救う会兵庫 長瀬代表>は今回のお話を伺って、

「きっと共産党内部においても、

橋本議員の周辺に圧力が掛かったに違いない」と早合点し、

なんとしてもその真相に接してみたいという強い衝動に駆られた。

兵本氏は現在、共産党を除名となった後、

全国協議会の幹事会推薦幹事<当時>として

運動の最前線に立っておられる。

不躾とは思ったが率直に質問してみようと思い立ち、

電話をさせて頂いた。

以下に質問の骨子を要約してみた。

質問 有本明弘さんが平成7年3月に橋本事務所を訪問されてから、

翌年2月の法務委員会までの間にどのような党内論議があったのでしょうか?

兵本氏 党自体は何もしていません。

あくまでも個人的な関心から始めたのです。

法務委員会とは毎週火曜日と木曜日に問題提起の場がもたれた上で、

関係者を出席させて質問する事になっていますが、

実際にはなかなか話題がないのが実情です。

たまたま日本海アベック拉致事件を調査していて、

意図的な「拉致」と確信するようになり、

調査に乗り出したのです。

始めの頃は勝手にやっていました。(つづく)

9月 7

兵本氏は電話で

「まず横田めぐみさんの件を取り上げ、

後にリ・ウネに関わる議事録(昭和63年参院予算委)の事を質して、

恵子さんの事件を取り上げる二段戦術で迫る」と

論法についての概略を説明した後、

「被害者の各家族へも連絡していますので、

有本さんにも傍聴して欲しい」と上京を促した。

ときは2月20日の法務委員会とされた。

しかし、直前になって質問は中止となった。

有本さんご夫妻が上京への旅支度を整える中の唐突な中止連絡だった。

明弘さんがテレビ朝日の石高プロデューサーにその訳を訊ねると、

「法務委員会そのものに

橋本首相が出席しない事になった為ではないか」と諭された。

明弘さんはその頃「そういうものか」と半ば諦めていたそうだが、

今は確信をもって否と言い、

共産党をも巻き込んだ「金丸外交」の悪弊により、

朝鮮外交はすべて誤りであったと断言されている。

その強い憤りの込められた発言は、個人的な次元を超え、

社会性を帯びて聴く人の心を捉える。

明弘さんにとって、橋本質問のその後は

「国益無視の朝鮮外交」への憤激と批判が、

確信となる段階で重要だったのではないだろうかと、私たちは推測する。

幻に終わった法務委員会の翌月、

「家族連絡会」が結成され有本さんも未認定(当時政府が認定していた

7件10名には含まれていなかった)ではあったが参加するに至るのである。(つづく)

9月 6

平成7年3月、橋本敦代議士の議員事務所を訪れた明弘さんは、

対応した秘書・島村氏に議事録の写しを示して、

恵子さんの事件とその後の経緯を説明し、

「先生が国会質問された頃はリ・ウネ(大韓航空機爆破事件犯人、

金賢姫の工作員教育課程における日本人教育係)のことについては

まだはっきりとはしておりませんでした、

しかし今はもう田口八重子さんであると判明しています。

どうかもう一度質問して頂いて、

娘の事についてご協力して頂けないでしょうか?」と懇願した。

島村氏は本人に取り次ぐ事を約束し、明弘さんは神戸への帰路についた。

数日後、橋本代議士本人からハガキが届き、

「私で良かったら協力させてもらう」という趣旨の事が綴られていた。

早速、同代議士の秘書と名乗る兵本達吉氏という人物から連絡が入った。

その後、兵本氏は熱心に有本夫妻からの聴き取り調査を実施した。

神戸の有本さん宅にも脚を運んだ。明弘さんの記憶では、

来訪した兵本氏は、「党の許可を得た上での行動です。」と

ご夫妻に明言したそうである。

同年秋の臨時国会にて取り上げられる可能性もあったが、

年を越して平成8年の春、いよいよ橋本代議士が質問に立つという事になり、

有本さんへも連絡が入った。(つづく)

9月 5

父、明弘さんの確信

本紙25号記載、昭和63年3月26日の参議院予算委員会における、

共産党の橋本敦議員<当時>の質問は、

「拉致事件」に関する初めての国会質問と称するに価するものであった。

同委員会では竹下内閣の宇野外相及び梶山国家公安委員長が

明確に事件を認めた上で、事件性とその緊急性に言及していたのである。

ご夫妻が恵子さんの生存情報を手にしたのは、同年(1988年)9月であり、

暗中模索の中あらゆる可能性を考えて東奔西走していた頃、

既に政府や国会は「拉致事件」を知っていたという事になる。

もちろん恵子さんの事件そのものは委員会議事録には見当たらない。

しかし、斯くも明瞭に「北朝鮮の国家意志」による事件を認めておきながら、

再三にわたるご両親の陳情に対し、外務省をはじめとする政府機関、

官僚、国会議員、マスコミの冷徹な態度は理解できない。(つづく)

9月 4

「拉致事件」というファクターを通して世間を見れば、

言動に重大な結果責任が付随する立場の人々、

「政治家」「官僚」「マスコミ」等の中には、

大きな道義的責任を負うべき人々が大勢居る。

彼らの犯した罪は、

それぞれが属する社会や背景によって様々に分別できるが、

共通しているものは「国益への背任」であろう。

有本さんご夫妻は、愛娘恵子さんと引き裂かれて以来19年<当時>、

同時期に殆どの国民が現在進行形で「危機」を実感することも、

ましてや自らが生まれた社会を疑うなど考えも及ばずに生活していた中で、

その罪を実害として被った稀有な経験をされた。

ご夫妻が耐えがたい苦痛と引き換えに経験されたそれは、

抽象的で捉えどころのない「戦後の歪み」を、叙事的に描き出している。

私たちは未だその歪の真っ只中に在る事を忘れてはならない。(つづく)

9月 3

「流れ」は変わった。そして、そこには明らかな分水嶺が在った。

3月11日の八尾恵さんの謝罪と告白が全国に放映された事と、

翌日の金子(赤木)恵美子第2回公判における証言がそれである。

今やメディアは挙って「北朝鮮問題」を語る様になり、

かつての「帰国事業」に対する批判にまで遡及するものまで現れ、

北の擁護者は急速に力を失ったかに見える。

私たちは今の世情に諸手を挙げて歓喜すべきなのか?

これは状況が変化したに過ぎず、

安定した東アジア新秩序が訪れた訳でもなければ、

拉致事件解決の光明が灯った訳でもないのである。(つづく)

9月 2

このシリーズは、昭和58年(1983年)語学留学の途中に立ち寄った

コペンハーゲン(デンマーク)から、ピョンヤン(北朝鮮)へ拉致された

有本恵子さん(当時23歳)の両親に対する、

「救う会・兵庫」スタッフによる聴き取り調査に基づくドキュメントである。

「流れ」は変わった

7月25日(木)<平成13年>脱北した帰国者・李昌成氏が参考人として

出席する衆議院安全保障委員会に、有本さんご夫妻が、

救う会全国協議会幹事の西岡力氏<当時>ら関係者と共に参考人として出席した。

また、先にカナダにて開催されたサミットでも取り上げられ、小泉首相<当時>が

各国首脳に「拉致事件」解決への協力と理解を要請した事も記憶に新しい。(つづく)

9月 1

(解説)

27日の公判では、よど号グループの妻たちが

モールス信号や乱数表を用いて、北朝鮮の指示を仰いでいたことや、

八尾さんが横須賀市内に飲食店「夢見波」を開店させた理由が、

自衛隊などの動向を調査するためだった事などが明らかにされた。

本証言を受けて、3月12日には自民党衆議院議員であり

日朝議連・拉致議連の会長(3月25日に辞任)の中山代議士<当時>が、

有本さん宅に電話をかけ「救う会の活動をとるのか、私をとるのか」

と恫喝に等しい事を嘉代子さんに伝えた。

嘉代子さんは中山代議士<当時>に対し、「家族会で一緒にやっており、

全員が無事帰ってこられる様に皆でやっているのだから、

自分達だけ特別な扱い(平壌に行って会ってくるような事)は出来ない」と伝え、

「救う会の方をとります」と答えた。

これは24日の「緊急報告会」にて明らかにされた。

なお、中山発言に前後して、

「非公式ながら有本恵子さんの無事を北朝鮮が認めた」という報道があったが、

ご両親は「帰国して、この国で会う。」ときっぱり。

北朝鮮は未だ恵子さんの肉声をご両親に伝えていない。

確たる証拠なしにかの国と交渉する事が、如何に馬鹿げているか、

もういいかげんにマスコミや、政府、国会議員は学習したはずだが・・・。

(特別号「日本赤軍よど号犯の妻、金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録おわり。

次号につづく)

8月 31

(解説)

27日の公判では、よど号グループの妻たちが

モールス信号や乱数表を用いて、北朝鮮の指示を仰いでいたことや、

八尾さんが横須賀市内に飲食店「夢見波」を開店させた理由が、

自衛隊などの動向を調査するためだった事などが明らかにされた。

本証言を受けて、3月12日には自民党衆議院議員であり

日朝議連・拉致議連の会長(3月25日に辞任)の中山代議士が、

有本さん宅に電話をかけ「救う会の活動をとるのか、私をとるのか」

と恫喝に等しい事を嘉代子さんに伝えた。

嘉代子さんは中山代議士に対し、「家族会で一緒にやっており、

全員が無事帰ってこられる様に皆でやっているのだから、

自分達だけ特別な扱い(平壌に行って会ってくるような事)は出来ない」と伝え、

「救う会の方をとります」と答えた。

これは24日の「緊急報告会」にて明らかにされた。

なお、中山発言に前後して、

「非公式ながら有本恵子さんの無事を北朝鮮が認めた」という報道があったが、

ご両親は「帰国して、この国で会う。」ときっぱり。

北朝鮮は未だ恵子さんの肉声をご両親に伝えていない。

確たる証拠なしにかの国と交渉する事が、如何に馬鹿げているか、

もういいかげんにマスコミや、政府、国会議員は学習したはずだが・・・。

(特別号「日本赤軍よど号犯の妻、金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録おわり。

次号につづく)

8月 30

ここで山室裁判長が検察側に「あとどれくらい時間がかかるのか」と訊ねたら、

「あと1時間ほど」と答えた。

すると弁護人が「あと1時間なんて信じられない。何か新しい話でもあるのか」と怒る。

検察側は「八尾証人が日本で任務に就いていたという事実関係と、実家にばれない様に、

偽名を使っていたということなど」と答えたが、

弁護人は「そのことは直接、金子被告が関係あることなのか」とまた怒る。

裁判長は「検察側の1時間というのは常識はずれ、今日はここまでで緊張維持の限界。

次回は3月27日13時30分から425号法廷、傍聴は抽選で行う」と宣言、

次回も八尾証人の尋問の手続きということに決まった。

16時40分 閉廷

16時45分 法廷から玄関に向かう廊下で、(金子の)弁護人どうしが立ち話をしている。

「公安にパスポートの返納命令を出した根拠を訊く、

被告人が工作員だと言うつもりだろう・・・」(○○市、MM)(つづく)

8月 29

一般的な海外ルートは、平壌→モスクワ→ベオグラード→ザグレブ→ヨーロッパ各国。

帰りは、コペンハーゲンもしくはウィーン→ザグレブ→ベオグラード→モスクワ→平壌。

ザグレブやベオグラードは北朝鮮と国交があったため、

北朝鮮外交官が居たので拠点にしていた。旅券の交換などもしていた。

連絡は、平壌からザグレブにはテレックスで連絡し、

ザグレブから前線基地へは電話連絡を用いて、早くて2日かかった。

証人は1997年2月に北朝鮮に行き、日本の旅券を預け北朝鮮の旅券を作った。

1979年にスペインに活動に行くときに、日本の旅券が証人に返された。

証人やよど号犯人たちは、北朝鮮の公民旅券で、北朝鮮外交官と一緒に

ザグレブなどの空港で出国手続きをしてから、日本の旅券に取り替えていた。

外交官とはキム・ユーチョルやチョウなどである。1984年頃から、

証人は日本へ活動に入るようになってから、日本旅券を持ったままとなった。

旅券は布袋に入れ、太もものサポーターにはさんで隠していた。(つづく)

8月 28

「北朝鮮でアルバイト中の滞在費はタダ、社会主義国は面白いよ」と

安部とキム・ユーチョルが有本恵子さんに言った。

「北朝鮮で何が売れているか」という調査の内容を、

証人が「面白そう」と言うと、

有本さんは「あなた(証人)が一緒なら」という条件を提示した。

安部が証人に「あなたは先に他のアルバイトがある」と言った。

有本さんは証人が後から必ず来るならということで了解した。

キム・ユーチョルがビザ申請のためと理由を告げて、

有本さんの旅券を預かった。

翌日、証人と有本さんが空港で安部とキム・ユーチョルに会い、

有本さんとキム・ユーチョルがコペンハーゲンからモスクワに向かった。

その後、証人は他の女性を探すためにロンドンに戻った。

(有本恵子さんの写真を示す、

隣のキム・ユー・チョルが居る)16時09分

田宮の指示で、証人と安部とキム・ユーチョルが有本さんを騙して、

北朝鮮へさらって行って結婚させた。

その後、田宮から「有本さんは元気だ」と聞いた。

証人はその後、有本さんに会っていない。

森ヨリコと黒田サキコのさらって来た男性と有本さんを結婚させた。

有本さんの教育係は、水谷キョウコと赤木志郎だった。

「自分達の勝手な思いで有本さんやご家族の人生を滅茶苦茶にして申し訳ない。

有本さんが早く帰国できるよう、こうして証言しました。」(16時14分)(つづく)

8月 27

証人はコペンハーゲンからザグレブに報告のために戻った。

1983年6月頃、五六課のキム・ユーチョルと安倍に報告した。

ザグレブから平壌の田宮にテレックスで連絡し、OKをとりつけた。

証人がキム・ユーチョルと一緒にいるところを、

西側諜報機関に監視されていたことは、神奈川県警で初めて知った。

9月中旬に、安部とキム・ユーチョルが

有本さんに北朝鮮で仕事をしないかと誘った。

ザグレブから有本さんに電話して、仕事先が

ハンブルグからコペンハーゲンに変更になったと言った。

有本さんは承諾した。

証人は有本さんと会い、中華料理店で安部と合流した。

「貿易会社をやっている。市場調査のアルバイトをして欲しい。

北朝鮮に調査の現場がある。」と安部が誘った。

キム・ユーチョルは遅れてやって来た。

安部がキム・ユーチョルを有本さんに紹介した。

「私は北朝鮮の貿易会社の社長」とキム・ユーチョルは自己紹介した。(つづく)

8月 26

有本恵子さんは留学中だった。

「もうすぐ帰国する、思い切って日本を出てきたから、

働きながら世界を見たい」と言っていた。

市場調査のアルバイトで、証人は有本恵子さんを釣った。

「私も世界をアルバイトしながら回っている、

ある会社の市場調査の仕事をしている。

私はロンドンを離れるので、あなたに代わりをして欲しい」

と証人のアパートで話したら、有本恵子さんは興味を持った。

ロンドンからザグレブに電話して、

安倍に「いいのが獲得できそうだ」と言った。

コペンハーゲンで有本恵子さんと会って、北朝鮮へ連れて行った。

有本恵子さんには、「ハンブルグにアルバイト先がある」と言っていた。

コペンハーゲン(デンマーク)は北朝鮮と国交あり、

活動ではいつも使っていた。

何故有本恵子さんに対し、

コペンハーゲンを隠してハンブルグと嘘をついたかというのは、

いつもよど号犯人たちが利用していたので、

もし田宮から「有本さんではダメだ」と言われた場合、

警察や西側諜報機関に秘密が漏れる危険性があったから。(つづく)

8月 25

1983年1月頃に革命村の田宮の執務室で、

証人と福井が任務を与えられた。

「25歳くらいまでの女性を何人でもいいから獲得しろ」

それまで田宮からの任務は男女を指定しなかったが、

このときは女を指定した。

「男ばっかり獲得しとったらあかんやろ、女も獲得せんと・・・」

田宮が証人に向かって言った。

すでにさらわれて来ていた2名の男性を、

金日成主義化するため結婚させる女性が必要であるということだった。

福井と証人の共同任務中、3月にロンドンで活動中の本部から

「すぐ帰れ」と連絡があった。

5月にザグレブの基地で、田宮から「この前の任務の続きをやれ」と言われた。

これは、すでに獲得した男性の結婚相手をさらうことである。

1983年4月中旬に証人はロンドンに入り、

インターナショナルハウスという語学学校で有本恵子さんと知り合った。

証人はこの時、「ヤノ ムツミ」もしくは「ヤダ ムツミ」と名乗っていた。

有本恵子さんは獲得対象者にピッタリだった。(つづく)

8月 24

工作で海外へ行く子とを「出張」と呼んだ。

海外任務の資金は田宮から渡された。

日本人を獲得する場合の条件は、正直で素直、義理堅く、

警察が家族や親族・友人におらず、両親から独立していること。

証人が実行した共同任務は、スペインの他、

1981年3月か4月頃から7月までフランス、1983年3月にイギリス。

他のメンバーの任務についても知っていた。

それは、革命村での生活の中や、出発前の見送りのときに分かった。

見送るために集まることを「決起集会」と呼んだ。

ユーゴスラビア・ザグレブによど号犯人たちの前線基地があった。

常駐者は赤木、田中、安部が交代で就いた。

証人はここで常駐者以外とも数多く会った。

日本人獲得は、男達が国際指名手配されていたので、

女達が中心になって実行した。キム・ユーチョルと証人の実績としては、

1983年7月頃、有本恵子さんを見つけ出し獲得したこと。

(この発言は15時36分)(つづく)

8月 23

チョウ先生も五六課所属、ユーゴスラビア・ザグレブにある

北朝鮮大使館の副領事だった。海外活動を主にしていたが、

日本語は下手だった。後に段々上手になった。

(チョウの写真を見せて確認、金子の写真を見せて確認)

よど号犯人たちは彼らと共に海外で活動する。

証人は1979年12月から1980年1がつまでスペインに行った。

1983年末頃までヨーロッパで活動、人さらい以外では、

旅券の更新や労働党関係の仕事で海外に出た。普段は田宮から任務が来るが、

たまに労働党から直接、工作場所の偵察の任務が来た。

革命村では、配給以外に1ヶ月に130ウォン支給された。

外貨と交換すると値打ちが上がり、1ウォンで子供の下着が買えた。

資金稼ぎの目的で海外へ行った事はない。(つづく)

8月 23

証人が初めてキム・ユーチョルと招待所で会ったのは、1977年3月か4月頃、

同人は五六課の副課長、革命村では田宮とよく討論していた。

彼のあだ名は「カゲッソ」、口癖からこの名がついた。皆カゲッソ先生と呼んでいた。

キム・ユーチョルは海外へよく行っていた。

ユーゴスラビア、オーストリア、デンマーク、フランスなど。

肩書きは、ユーゴスラビア・ザグレブにある北朝鮮大使館の副領事だった。

(キム・ユーチョルの写真を見せて確認)

証人は神奈川県警で写真を見せられたときに、

キム・ユーチョルの素性を隠そうとして、中国人のリュウだと言った。

キム・ユーチョルの別名は「ウツノミヤ オサム」。

証人はフランスやアジアでこの旅券を見た。キム・ユーチョルは日本語がとても上手だった。

1977年5月か6月頃に、「チョウ先生」という人にも革命村であった。

14時50分 休憩

15時16分 再開、引き続き検察尋問に八尾証人が答える。(つづく)

8月 22

「よど号犯人たちは結婚して子供を産んで日本革命をする。

党創建準備委員会を作って日本を金日成主義化する。」

党の委員長は田宮、副委員長は小西。

田宮の話、「金日成が、日本を金日成主義化するとしたことに関する内容は、

党創建でり、中核となる日本人を獲得せねばならない。

目的は、指導中核の発見育成。金日成主義に合った人材を海外で見つけ、

それに思想教育を施す。獲得方法は思想的な場合は別にして

色々な方法がある。対象者の要求に合わせて誘い、嘘の口実で獲得する。」

証人は当時、金日成主義は絶対だと考えていた。日本革命のためには、

人をだましても良いと思っていた。当時はそれが良い事だと信じていた。

人さらいはよど号犯人たちだけでは無理で、労働党連絡部五六課が協力していた。

これは金日成が指導する、よど号犯人専属部署。

金日成がよど号犯人たちと初めて会ったのが5月6日だったので、

五六課が創設された。(つづく)

8月 21

革命村では朝食後、本部に集まって朝の会議をした。その日の計画を発表し、

学習として労働新聞を読んだ。「抗日運動」の時の活動家連中が歴史として登場する。

昼食までは個人の学習を本部でやる。昼食後2時間は休み、

その後本部で活動準備。週に1回は映画がある。

夕食は1984年までは食堂で全員一緒に食べたが、1985年からアパートで妻たちが

作って食べるようになった。夕食後は個人学習、たまに映画があった。

これが平日の日程。

土曜日は、午前中金日成主義について学習、

その論文について討論。午後は生活総括。

日曜日は基本的に休み。

任務とは教示のことである。証人は1977年5月14日に革命村で

金日成と会った。直接、革命村の中で妻たちに対し

「学習して立派な革命家になれ」と教示。

証人は当時朝鮮語が分からず、後からよど号犯人たちに訳してもらった。

1978年末、田宮から金日成の教示についての話があった。

日本を金日成主義化するための具体的内容の総会があり、全員主席していた。(つづく)

8月 20

1987年10月17日に帰国するまで、その間10年間は北朝鮮にいた。

日本革命村は平壌郊外のテドンガンのほとりにある。

ゲートがあり、フェンスで囲まれている。人民軍が警備しており、

自由に出入りはできなかった。

よど号犯人たちに与えられていたのは、家族単位のアパート、事務所、

会館(ここでは学習会や映画がある)、食堂、それらとは別に労働党の事務室がある。

よど号犯人以外では、管理所に労働者がおり、金日成総合大学の研究室もある。

よど号犯人の指揮系統は、田宮→小西→男達→妻たち。

革命村での生活は、朝6時30分起床、体操とランニング、妻たちは食事を用意、

男達は掃除。教育プログラムは妻たち8人が受けた。

1977年5月から1978年末頃まで教育を受けた。指導者から、「もう卒業だ」と言われた。

教育内容は、金日成思想、金日成哲学、政治経済、歴史、朝鮮語など。

指導者は社会科学学院や金日成総合大学の教授たちが先生。(つづく)

8月 19

1984年7月19日まで証人は帰国していない。3ヶ月で帰国しなかった理由は、

北朝鮮で思想的教育を受けながら、よど号犯人たちを日本の革命家として紹介され、

無理やり結婚させられたから。結婚式は日本革命村で1977年5月4日にあげた。

前日には赤木と金子恵美子が結婚し、翌日には田中と水谷キョウコが結婚したと、

労働党のものや田宮から聞かされた。吉田金太郎には会ったことがない。

よど号犯人たちが急に結婚した理由は、1975年5月6日に金日成がよど号犯人たちと会い、

全員に結婚命令を出したから。労働党の者やよど号犯人たちから

「教示」(きょうしと証人は言う)のことを聞いた。

教示とは金日成の思想を明らかにした日本革命への指示のこと。

結婚式は、金日成と金正日に対する感謝と忠誠を誓う手紙を書いて読み上げることをする。

(よど号犯人たちの写真を見せる、全員の名前を言う。柴田の写真も見せて確認)(つづく)

8月 18

証人は1988年5月22日に、アパートを借りる時の有印私文書偽造で逮捕され、

22日間拘留され、略式起訴され、罰金刑を受けた。

金日成主義化する目的で同じ活動をしていたので、証人と被告人は同じである。

1977年5月4日に証人と被告人は初めて会った。証人と柴田の結婚式の時である。

証人は1977年3月に北朝鮮へ行った。関西生まれで、友人に在日朝鮮人が多かった。

彼らが差別されているのでチュチェ研究会に入って勉強した。その勉強会をやめた後、

在日朝鮮人に誘われて北朝鮮へ行った。在日の名前は松山、

3ヶ月ぐらいの短期留学ということで誘われた。

ルートは、伊丹空港から香港→マカオ→中国→北朝鮮。

証人の出入国記録は、最初の出国は1977年2月27日。マカオで二人の北朝鮮人と会った。

マカオから中国に入るときには、日本の旅券を預けて、北朝鮮の旅券をもらって入国した。

証人は一人で、平壌郊外の招待所で思想的な教育を受けた。(つづく)

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