8月 17

「検察の証人尋問」  ・・証人の発言要旨

被告人とは1977年5月頃から平壌の日本革命村で出会い、約10年間生活を共にした。

日本革命村とは、金日成主義で日本に革命を起こさせるために活動する

根拠地、思想、目的を同じくするグループの村。

よど号グループとは、よど号ハイジャック犯人とその妻たち、一緒に暮らしていた。

証人は柴田の妻だった、被告人は赤木の妻だった。それらが一緒に生活していたのが日本革命村。

組織名は、証人は中山アキ子、被告人は山本ユウ子、呼び方は○○同志。

証人が旅券返納命令を受けたのは、1979年から北朝鮮の工作員と一緒に活動していたから。

1988年1月末に旅券返納命令を受けた、翌月始めに返納した。

被告人を含めた5人の妻たちにも命令が出ていた。

このことは、証人はテレビ等のニュースで理由も含めて知った。(つづく)

8月 16

3月12日

東京地裁 刑事第五部 104号法廷

検察官 新倉英樹・野村安秀

裁判官 山室恵・辻川靖夫・坂田正史

11時30分 すでに50人ほどが傍聴券を求めて並んでいる。

TV東京とフジTVは裁判所入り口にスタンバイ、

横田さんご両親も傍聴券を求めて57番目あたりで並んでいる。

12時20分に傍聴券64枚が配布される。Mは61番。

12時45分 有本さんご両親がマスコミに囲まれながら裁判所に到着。

12時40分 SKさんが傍聴券は抽選だと思っていたと嘆きながらやってきた。

12時50分 黒色ミニバンが屋根にスピーカーを2台取り付け窓にスモークを貼って

裁判所にやって来て、女の声で喚き始めた。(これが赤軍支援者か?)

13時30分 2分間のテレビ撮影。

13時33分 金子が手錠・腰縄で入廷、エンジ色のボロセーターに黒色ボロズボン。

弁護人は開廷前に、弁護人にも開示されていない八尾恵の話を検察がマスコミに流したことに対して抗議、

八尾の尋問に対しても細心の注意を要すると訴えた。

弁護人が本日の証拠として同意したのは、ホテル宿泊カード・よど号メンバー写真・その他写真のみ。

八尾証人入廷、オレンジ色のスーツ、白のブラウス、しわひとつない、長い髪もつやつや、

やたら明るく傍聴席に笑顔を見せる。13時宣誓。(つづく)

8月 15

3月12日(平成14年)、

日本赤軍よど号グループの柴田康弘の元妻で、

本紙にも彼女の告白記事を引用したことのある、

八尾恵さんがついに

「自らが有本恵子さん拉致実行犯である」と、

金子恵美子(旅券法違反、

有印私文書偽造・同行使事件で公判中)の法廷にて証言した。

前夜のニュース番組の特集では「ご両親への謝罪」も放映され、

「拉致事件」は朝野を駆け大きな展開を見せるに至っている。

本紙編集部は、予ねてより様々なご協力を頂いている、○○市ご在住のMM氏に

裁判の傍聴をお願いしたところ快くご承諾頂き、詳細な傍聴記録を賜った。

平日にも関わらず、ご足労頂いたMM氏に謝意を表します。ありがとうございました。(つづく)

8月 15

昨年秋からの中断で

ご支援いただいております皆様方には

大変ご迷惑をお掛け致しましたが

このたび

多くの皆様方からの強いご要望もあり

『恵子、お母さんは待っていますよ!』の連載

(「グローカルひょうご」からの転載)を

再開させていただくことになりました。

拉致問題は解決に向けて全く前に進みませんが

是非ご一読賜り

「絶対に”拉致”は許さない!

全員救出、完全解決」との決意を

新たにしていただきたいと存じます。

何卒よろしくお願い申し上げます。

(「グローカルひょうご」は

かなり前に同志の方々と手作りで作成していたミニコミ誌で

どうしても一部発見できない号があり

その号に掲載されていた部分は転載することができません。

発見できない号の次の掲載分

特別号「日本赤軍よど号犯の妻、

金子(赤木)恵美子、裁判傍聴記録」から

転載を再開させていただきます。

ご了承の程、お願い申し上げます。)

代表 大矢卓志

2月 12
■「あんな手紙では北朝鮮に言えない・・・」裏切られた金丸訪朝■
先遣隊が訪朝した直後、すぐに上京して石井先生に会いました。もちろん
期待の気持ちでいっぱいでした。ところが石井先生は「あんな手紙ぐらいでは、
北朝鮮には言えないので」と、開口一番おっしゃいました。
私はわが耳を疑いました。それで思わず「え?」と聞き返すと
「まあ、だから北朝鮮には言っていない」と言われました。
全身から血の気が抜ける思いでした。目の前が真っ暗になりました。
ちょうど2002年9月に当時の福田康夫官房長官から恵子が「亡くなっています」
と通告されたときと同じでした。
石井先生は後日、「あんな手紙ぐらいでは」と言ったのは北朝鮮の人間で、
この件はきちんと北朝鮮側に伝えた、などと私どもがはじめに耳にした説明とは
全く異なる発言をされています。
しかし、1990年9月に大々的に報じられた金丸訪朝でも、その直後の
小沢一郎自民党幹事長らの訪朝でも恵子たちの問題をはじめとする拉致問題は
まったく取り上げられませんでした。
当時、金丸訪朝は、日朝国交への扉を開いたなどと評価されていましたが、
実際は、拉致問題の解決なしの日朝国交正常化を目指すという、
許し難い外交を行ったのです。
現在(平成19年11月当時)、民主党代表である小沢氏は、
自身が自民党幹事長としてかかわった金丸外交について
反省の弁をいまだに述べていません。
それでは政権を担うかもしれない第1野党党首の資格を疑われる。
私はあえてそう言いたいのです(政権が交代したことはご周知の通り)。
(つづく)
*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載))

■「あんな手紙では北朝鮮に言えない・・・」裏切られた金丸訪朝■

先遣隊が訪朝した直後、すぐに上京して石井先生に会いました。もちろん

期待の気持ちでいっぱいでした。ところが石井先生は「あんな手紙ぐらいでは、

北朝鮮には言えないので」と、開口一番おっしゃいました。

私はわが耳を疑いました。それで思わず「え?」と聞き返すと

「まあ、だから北朝鮮には言っていない」と言われました。

全身から血の気が抜ける思いでした。目の前が真っ暗になりました。

ちょうど2002年9月に当時の福田康夫官房長官から恵子が「亡くなっています」

と通告されたときと同じでした。

石井先生は後日、「あんな手紙ぐらいでは」と言ったのは北朝鮮の人間で、

この件はきちんと北朝鮮側に伝えた、などと私どもがはじめに耳にした説明とは

全く異なる発言をされています。

しかし、1990年9月に大々的に報じられた金丸訪朝でも、その直後の

小沢一郎自民党幹事長らの訪朝でも恵子たちの問題をはじめとする拉致問題は

まったく取り上げられませんでした。

当時、金丸訪朝は、日朝国交への扉を開いたなどと評価されていましたが、

実際は、拉致問題の解決なしの日朝国交正常化を目指すという、

許し難い外交を行ったのです。

現在(平成19年11月当時)、民主党代表である小沢氏は、

自身が自民党幹事長としてかかわった金丸外交について

反省の弁をいまだに述べていません。

それでは政権を担うかもしれない第1野党党首の資格を疑われる。

私はあえてそう言いたいのです(政権が交代したことはご周知の通り)。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)

2月 9
田中実さん拉致事件と救出活動について(20)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 02 9th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

告発の取り扱いについて

・韓の告発から2年5ヶ月、曹の告発から1年7ヶ月が経過しているが(当時)、

もし、事実誤認があって犯罪が成立しているのならば、

一刻も早くそれを公表して両名の名誉が不当に毀損され続けている状態を、

終わらさなければならない。

・あるいは、犯罪の事実はあるが起訴が難しい場合、

これは捜査を怠る(たな晒しにする)理由にはならず、

捜査しなくてはならない。

・道義的責任があっても、法律が無いために犯罪が成立しないのであれば、

国家の治安維持の根幹に関わる重大事であるから、

直ちに立法処置が望まれる。

・時効が成立するか否かが判断し難いならば、

内閣法制局に見解を出させる必要がある。

・上記の点を放置したまま、

事実上、たな晒しの状態を続けている現状は許されないのではないか。

(告発の取り扱いについて おわり。以下つづく)

2月 6
田中実さん拉致事件と救出活動について(19)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 02 6th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

問題点

(韓国の司法当局への告白について)

・韓竜大と曹廷楽の両名に共通する供述の中に、

「韓国へ行って当局に洗いざらい話した」という

くだりが存在する。

さらに、曹の話によれば、韓国での供述に基づき

日本の警察も聴取にやって来て、それに応じた

とある。

・これが真実ならば、日韓の超法規的捜査協力の存在が

疑われる。

・また、日本の警察にも、、、ということになれば、

一種の司法取引が超法規的に為されたということに

ならないか?(問題点おわり 以下つづく)

2月 5
田中実さん拉致事件と救出活動について(18)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 02 5th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

問題点

(田中実さんの出国に関する疑問)

・韓竜大の告発について、警察は

「出国記録ならびにパスポート申請記録を

探しているが、当時はすべて紙媒体であり、

保管されていない可能性が高い」として、

物証がないと言わんばかりである。

しかし、それならば、

平成8年12月の兵庫県議会警察常任委員会における

警備部長答弁では、何故

「昭和53年6月6日」出国と認めたのか?(つづく)

2月 4
田中実さん拉致事件と救出活動について(17)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 02 4th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽告発へ

・曹は当初激しく抵抗したが、すぐに落ち着きを取り戻し

着席して私たちの質問に答え始めた。

やり取りは1時間以上に及び、概ね以下のような理由から、

私たちは曹の告発へ踏み切る決意を固めた。

①田中実さんが拉致されていること自体は否定しない。

②平成14年韓国へ渡り、当局へ身の上を告白している。

韓竜大は2年前にそれを終えている。

③名誉を守る手立てを講じない理由はなかった。

④肝心な部分は否認するのではなく、韓竜大に訊け、とはぐらかす。

⑤文書による回答を求めた質問状にまともに答えようとしない。

⑥罪名罰条は前回同様に、平成15年7月22日に提出した。

受理は約10日後だった。(韓竜大告発へ終わり 以下つづく)

2月 3
田中実さん拉致事件と救出活動について(16)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 02 3rd, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽告発へ

・平成15年6月、

ある雑誌社から直撃取材同行のオファーを受けた。

「この機を逃してなるものか」

私、長瀬と岡田氏の2名は躊躇なくこれを承諾、

直ちに山形へ飛んだ。

(FRIDAY2003年6月20日号参照)

・張り込み3日目、

奇跡的に温泉へ出かける曹をキャッチ、

直撃取材が成功した。(つづく)

2月 2
田中実さん拉致事件と救出活動について(15)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 02 2nd, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽告発へ

・曹は事件を主導したと考えられるだけに、何としても

それを裏付ける新たな証拠を入手しなければならない。

しかし、もはやそれは、民間人の領域を踏み越えており

不可能に思えた。

・「何故反論しないのか?」本人に訊くのが一番ではあるが、

山形県から1軒の家を探し当てるのは容易ではない。

ここでも張氏の日記が活躍して、まず曹が経営する

遊技場の所在地が判明し、各地の関係者にも御協力頂き、

ついに曹の自宅を突き止めたのであった。(つづく)

2月 1
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フリップを持っているのが当会代表の大矢です
1月 18
田中実さん拉致事件と救出活動について(14)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 01 18th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽の告発に向けて

(張龍雲氏の置きみやげ)

・しかも、当該民事紛争は

結果的には曹に軍配が上がっているにも関わらずである。

・張氏の日記は、

我々が曹を告発するために大きな置きみやげとなったのである。

我々は準備に着手した。」

1月 16
田中実さん拉致事件と救出活動について(12)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 01 16th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽の告発に向けて

(張龍雲氏の置きみやげ)

・以下は情報提供にあたり秘匿を約束したため、

実名は差し控えるが、

その関係者は長瀬の申し入れを快く承諾くださり、

張氏が遺した膨大な量の日記を貸して頂いた。

・中には、

大乗寺事件や十文字山事件といった、

関西の在日社会で起こった経済事件(詐欺)に関する記述も多いが、

中でも特筆すべき資料を発見することができた。(つづく)

1月 15
田中実さん拉致事件と救出活動について(11)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 01 15th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽の告発に向けて

(張龍雲氏の置きみやげ)

・田中実さんに関わる原点は、

言うまでもなく張龍雲氏の告白であり、

その著書「朝鮮総連工作員」である。

しかし、刊行物に著された内容には、犯罪を立証するだけの証拠価値があるのか否か、

その疑念は当初から私たちの心を惑わせた。

・張氏の死去から2年近く経っていたが、

そういえば、

「分からないことがあれば、いつでも尋ねなさい」と言われて

受け取った名刺があったことを思い出し、

思い切って訪ねてみることにした。(つづく)

1月 13
田中実さん拉致事件と救出活動について(13)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 01 13th, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

曹廷楽の告発に向けて

(張龍雲氏の置きみやげ)

・それは、平成9年(1997年)1月に山形県下で起こった、

張氏と曹の民事紛争に関わる告訴状の写しであった。

内容は、「洛東江」という組織名をあげて、

曹が非合法組織の幹部であり、その活動の一環として

資金集めを行ってというものであった。

・ということは、平成8年から9年にかけて、

月刊誌や単行本による表現と、利害の対立する法廷における一方的な表現により、

著しく名誉を傷つけられている訳で、

当然のことながら、その対抗処置として、

名誉毀損等の告訴を行ってしかるべきところを、

何もやっていないのである。(つづく)

1月 3
田中実さん拉致事件と救出活動について(10)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 01 3rd, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

韓竜大の告発(つづき)

・田中実さんが姿を消した後、

オーストリアからの国際郵便が金田さんへ届けられた。

差出人は田中さん。

内容は「オーストリアは良い所だから、

君もこっちへ来ないか」という誘いだった。

金田さんは筆跡に疑いを持ち、

この証言者にそれを打ち明けていた。

しかし、

この誘いを受け入れてしまった金田さんは、

渡欧準備のために上京することになり、

何とあの中華料理店「来大」で送別会が開かれたそうである。

・上京した金田さんは音信不通となり、

約半年後に証言者の近親が「来大」の韓を詰問したが、

韓は「知らない、

分からない」といった要領を得ない返事に終始した。

・以上の内容を、

国外移送目的略取等(刑法226条)を罪名および罰条とする、

告発状に添付して、平成14年(2002年)10月4日、

兵庫県警に提出した。受理は奇しくも10月15日、

拉致被害者5名が帰国した日であった。

1月 2
田中実さん拉致事件と救出活動について(9)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 01 2nd, 2010| icon3コメントは受け付けていません。

韓竜大の告発へ(つづき)

・田中実さんが育った施設関係者の証言、

張龍雲氏が「拉致工作」を告白した横田さん夫妻へ宛てた手紙、

そして渡辺先生の証言、

しかし、

事件性をうかがわせるものがなく、

途方にくれたが、

同郷の岡田氏が執拗な調査を続けて、

ついに決定的な証言を得た。それは、

田中実さんと同じ施設で育った後輩の金田竜光さんを、

一時期雇っていた雇用主の関係者によるものであった。

証言者と金田さん、

および周辺関係者は、

田中実さんの働いていた中華料理店「来大」へ頻繁に出入りしており、

金田さんは金ちゃんと呼ばれ親しまれていた。(つづく)

1月 1
田中実さん拉致事件と救出活動について(8)
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韓竜大の告発へ

・小泉首相の訪朝後の11月、

日朝国交正常化実務者会議が開かれ、

日本側が複数の拉致被害者を照会した。

何かの集会に参加していた平沢勝栄衆議にお会いした折、

田中実さんはどうなったのですか?

とお尋ねしたところ、

そのリストの最前列で照会してあるとのことであった。

しかし、

拉致認定される様子は全く感じられなかった。

・この機に及んで未だ消極的な国に対して、

もっと強力に訴えられるものはないか、

策をめぐらしてたどり着いたのが「告発」であった。

・「相手を訴える法律知識(自由国民社)」を参考にして書面を整えるという、

誠に稚拙な行為ではあったが、

可能な限りの証拠集めに奔走することになった。(つづく)

12月 31
田中実さん拉致事件と救出活動について(7)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 12 31st, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

「渡辺友夫先生、韓を直撃する!」

渡辺友夫先生は、

平成15年4月、八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を直撃。

しかし、実は、これが2度目の訪問であった。

この2ヶ月前にも同じ場所を訪れ、

面会を試みるも失敗。

やむなくあきらめ、帰らざるをえなかったのである。

(講談社FRYDAY03.5.27に詳しい)

12月 3
田中実さん拉致事件と救出活動について(6)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 12 3rd, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

<救出活動の経緯>

(3)恩師・渡辺友夫先生

・田中実さんが在学していた頃の神戸工業高校の技術課程は、

1年から卒業までの3年間クラス替えはなかったそうである。

それ故に田中さんのことを覚えているクラスメイトも多い。

ただ卒業から40年近く経って、それぞれの人生を歩んでいる同窓生たちが

名乗り出るのは困難なことであり、私たちもそれは自覚していた。

しかし、そんなことは全くものともせずに立ち上がられた人がいる。

3年間担任教師であった渡辺友夫先生である。

・学校OBに知己のある知人を介して、

「自分が田中の親代わりに」という渡辺先生の申し出を受け、

早速長瀬救う会・兵庫代表が先生のお宅へ赴いた。

・御高齢にもかかわらず、かくしゃくとされた方である。

挨拶もそこそこに田中さんの思い出を語られた。

「彼は施設から通っていたので、常に気をかけていました。

当時の同級生には同じ境遇の者はいなかったので、心配したのですが、

屈託のない笑顔を見せる奴でした。

しかし、弁当が(施設で提供される)小さくて粗末なものだったので、

職員室に呼んでおかずを分けてやったりしました、、、」

ひとしきり語り終えた先生の目は、涙で一杯だった。

・以後、渡辺先生には、あらゆる場所にお運びいただき、

田中実さん救出のために御尽力いただいた。

そして、

ついには、青森県八戸市内で隠遁生活を送る韓竜大を訪れ、

直接お会いいただいたのである。

同行した某雑誌の記者によれば、へらへらとはぐらかす韓に対して、

渡辺先生は掴みかからんばかりの勢いであったそうである。

(その時の様子については、FRYDAY平成17年5月27日号に詳しい)

12月 2
田中実さん拉致事件と救出活動について(5)
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<救出活動の経緯>

(2)田中実さんの写真公開

・平成14(2002)年は、3月には八尾めぐみ氏が有本さん拉致を証言。

9月には小泉首相が訪朝。

何ともドラスティックに変化した感のある年だったが、

その陰で田中実さんに関して重大な事実が発見された。

・田中さんと同い年の岡田和則氏(当時、救う会・兵庫のメンバーとして活動。

現在、特定失踪者問題調査会常務理事)が、同じ学区(中学校)だったことが判明。

岡田氏は中学校から私学に進学したが、多くの同窓生は田中さんと同じ鷹匠中学校へ入学しており、

そこで田中さんと同窓になったのである。

“灯台下暗し”とはまさにこのことであった。

・岡田氏が早速同窓生に呼びかけたところ、あどけなさの残る中学生時代の田中さんの写真が

手に入ることとなった。

それが声明とともに公開された1号写真だったのである。

・9月16日の「総理訪朝緊急国民大集会」開催直前、

日比谷公会堂の楽屋で開催された幹事会は、異様なまでの緊張感に包まれていた。

訪朝直前の家族との面会を拒む小泉首相に、語気を荒げる関係者も少なくなかった。

その最中に1号写真の掲載されたチラシは披露されたのである。

・しかし、事態はこれで終わらなかった。

小泉首相が機上の人となり、私たちも帰路についた同日、

また新たな証拠がもたらされたのである。

・何と高校時代の卒業アルバムがもたらされたのである。

そこには、1号写真からはうかがい知ることのできない、

生き生きとした男子としての田中さんが収められており、

その豊かな表情は私たちの認識を一変させた。

「田中実さんは生きている!」

・帰国した小泉首相が、「5名生存10名死亡」と家族に告げたその夜、

私たちは憤りにうち震えながらも、皆同様に

「このままでは田中さんは見捨てられてしまう」

との思いを禁じえなかった。

・9月22日、緊急報告会として有本さんに御登壇いただいた後、

数種類の2号写真をマスコミに公開した。

その2号写真は衝撃をもって受け入れられたらしく、

各紙に田中さんが大きく取り上げられることとなった。

さらに情報は寄せ続けられたのである。

12月 1
田中実さん拉致事件と救出活動について(4)
icon1 ooya | icon2 拉致問題の真相ードキュメント | icon4 12 1st, 2009| icon3コメントは受け付けていません。

<救出活動の経緯>

(1)張龍雲氏との出会い

・平成12年(2000年)秋、神戸市内において、或る団体の

設立記念式典が開催され、記念講演の講師として張龍雲氏が

登壇された。

私たち「救う会・兵庫」の活動にも理解を示していてくれた

その主催団体は、同年3月に家族会と救う会が実施した

「北朝鮮への50万トン米支援・反対抗議行動」

いわゆる「座り込み」に関する報告の場を提供してくれたのであった。

・「救う会・兵庫」はその催しの楽屋で張氏と初対面の挨拶を交わした。

張氏はすでに持病の糖尿病がかなり進行していると語り、

もっと早く皆さんと会っておけば良かったと云って、

長瀬代表の手を握られた。

車椅子から降りる時も奥様の介添えを必要とするほど、その病状は

相当進行していた。

いつでも分からないことがあれば尋ねなさい、と言って名刺を

差し出されたが、その約半年後、張氏は帰らぬ人となった。

・その日の講演内容は、その前年出版の「朝鮮総連工作員」に関する

内容であったが、特に田中実さんのくだりについては

詳しく言及されていた。

・それ以降、兵庫県下で実施する街頭署名活動においても、

有本恵子さんとともに田中実さんの名も連呼して

救出を訴えるよう努めることになった。

しかしながら、

田中実さんに関する世論の関心は極めて低く、

また、張氏の告白を補完するような新たな証言や証拠も

得られず、時の経過を許す日々が続くこととなった。

11月 30
田中実さん拉致事件と救出活動について(3)
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<田中実さん拉致事件の基礎知識>

(行政の認識)

・平成8年(1996年)12月12日、兵庫県議会警察常任委員会で

大前繁雄県議(当時)が、同月発売の「文藝春秋」を取り上げ、

「警察は何か情報を得ておられるのか?得ておられるのなら

お示しいただきたい。」と質問する。

・大橋警備部長(当時)は、「調査の結果、神戸市内に居住していた

同姓同名の人物が、昭和53年6月6日、成田から出国した後、

現在まで所在不明となっていることが判明している。

この人物が記事に云う当該田中実氏と同一である可能性は

否定できないと考えている。

県警としては、当該人物の行方について、拉致された可能性も含めて

慎重に調査しているところである。」と答えた。

11月 29
田中実さん拉致事件と救出活動について(2)
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<田中実さん拉致事件の基礎知識>

・平成8年(1996年)12月、平成9年1月号の「文藝春秋」に、

神戸市在住の在日・張龍雲(チャン・ヨンウン、故人)氏が、

自らが北朝鮮工作機関「洛東江」のメンバーであったことを告白して、

同組織の韓竜大(ハン・ヨンデ)と曹廷楽(チョ・ジョンガリ)が

共謀の上、昭和53年(1978年)6月6日、田中さんをウィーンに連れ出し、

モスクワを経由して平壌へ拉致したことを暴露した。

韓は田中さんが勤めていた「来大」の経営者だった。

・平成11年(1999年)には、「洛東江」の謀略を詳述した張氏の著書

「朝鮮総連工作員(黒い蛇の遺言状)」が小学館文庫から出版された。

張氏は平成13年(2001年)持病の悪化により他界。

11月 28
田中実さん拉致事件と救出活動について(1)
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◎これまで救う会・兵庫(代表:長瀬猛、副代表:大矢卓志)が携わってきた

北朝鮮による拉致被害者・田中実さんの救出活動について

何回かに分けて掲載します。

田中実さんのプロフィール

・昭和24年(1949年)7月28日生まれ、本籍神戸市東灘区

・幼い時に両親が離婚。

神戸市内の養護施設で育つ。

神戸市立高羽小学校、鷹匠中学校、神戸工業高校を卒業後、

市内のパン製造会社に就職するが退職。

失踪直前は阪神「青木」駅近くの中華料理店「来大」店員だった。

11月 27

連載「恵子、お母さんは待っていますよ!」が長らく中断してしまっており、

大変ご迷惑をおかけしております。

多くの方々から「続きはどうなっているのか!」とのお叱りを頂戴致しました。

心からお詫び申し上げます。

(単なる言い訳に過ぎませんが、

かなり古い資料を引っ張り出してきての連載で、

今のところ、

どうしても続きの連載記事が記載された号のミニコミが見つからないのです。

もう少しお時間を頂きたくお願い申し上げます。)

他方、

有本恵子さん同様、

政府認定の被害者である田中実さん拉致事件と田中さんの救出活動について、

ぜひ掲載させて頂きたい内容がありますので、

関係者(救う会・兵庫)の了解を得た上で連載させて頂きます。

何とぞよろしくお願い申し上げます。

11月 6

さて、将来この条約が発効したとして、自動的に、「軍事行動」が担保されるのかと言えば、「否」です。もし現状のまま事態が推移して、「軍事行動」を執ったならば、その時の総理大臣は、侵略を指揮したとして「人道に対する罪に相当すると規定」による訴追は免れないでしょう。 即ち、国際的共通認識を獲得しておくことが十分条件なのです。

近年、拉致被害者のご家族が世界各国へ出向いて、懸命なお訴えをしておられます。横田さんご一家が、ブッシュ前大統領と面会されたのも、国際連携という運動の一環でした。これはこれで効果があったことに異論はありません。しかし、軍事行動に必要な国際的共通認識を獲得したのかと言えば、補完的な効果しかなかったように思います。そして、その獲得が十分条件なら、補完されるべき「未着手の本筋」が必要条件となります。これこそが、拉致解決の為には、決して避けて通ることのできない「実行犯の検挙」なのです。

現在、我が国は拉致被害の規模を自ら明らかにすることなく、数多く潜伏している実行犯や協力者を一切検挙しておりません。わずかに北朝鮮に逃亡している実行犯を指名手配しているだけです。残念なことですが、実行犯や協力者の中に相当数の日本人がいます。そのことを知る報道機関も多いのですが、殆ど報じられていません。まさに闇の中の闇なのです。

この闇を放置したままでは、必要条件は永遠に満たされません。従って十分条件である国際的共通認識を獲得することも困難でしょう。「もし現状のまま事態が推移して、「軍事行動」を執ったならば、・・・」と先述した意味はここにあります。

私は、13年間の運動の中で、拉致実行犯と相対した経験があります。その人物は訴追されることなく今も一般人として生活しています。彼のような人物を国際法廷で証言させるならば、その効果は計りしれません。

私たちのこれからの運動は、この「未着手の本筋」を放置しつづける危険性を、実例を示して知らしめることではないでしょうか。いささか遅きに失しているとしても、後ずさりをしている暇はないのです。

11月 5

「拉致はテロだ」という主張は、
9.17以降「経済制裁」を求める運動の枕詞となり、
私たちは疑うことなく、
そう染められたのぼり旗を掲げて、街頭に立ちました。
しかし、本当にそれで良かったのでしょうか。

まず、このたび批准に至った「強制失踪条約」の中身を見てみましょう。
この条約は、2006年12月20日の第61回国連総会で採択された条約です。
正式名称は「強制失踪からのすべての者の保護に関する国際条約」と言います。
この2年前には、
蘇我ひとみさんがお嬢さんとの再会を果たしており、
国際的な関心が拉致問題に注がれていました。
この条約は、明らかに北朝鮮を主たる対象にしています。

条約の概要は、次のように翻訳されています。
「国家機関や国の許可を得た個人又は集団が逮捕・拘禁・拉致などで個人の自由をはく奪する行為を強制失踪として禁止し、組織的で広範な強制的失踪は、人道に対する罪に相当すると規定する禁止条約。」

ここで注目するべきは、
下線部「人道に対する罪に相当すると規定する」という部分です。
第5条には、次の様に明確な定義がなされています。
「強制失踪の広範又は組織的な実行は、適用可能な国際法に定める人道に対する犯罪を構成し、及び当該適用可能な国際法の定めるところにより結果を得る。」

それでは、「当該適用可能な国際法の定めるところにより結果を得る。」とは、どういうことを指すのでしょうか。
思いあたるのは、オランダ・ハーグに設置された国際刑事裁判所です。
ここでは現在、コソボ紛争で発生した、虐殺についての審理が進められています。

同紛争の一方当事者であるセルビアに対し、
国連安保理による非難を根拠としてNATOが軍事介入、
大規模な空爆が実施されたのは、皆さんのご記憶にも新しいことと思います。

即ち「当該適用可能な国際法の定めるところにより結果を得る。」とは、
軍事的制裁を含む処置を排除しないということであり、
我が国と北朝鮮との関係に置き換えれば、拉致という強制失踪に対して、軍事行動もあり得るということなのです。
翻って過去の私たちの主張で叫ばれた「テロ」とは一体何を意味していたのでしょうか。

難しい戦争の定義は専門家におまかせすることとして、一般にテロと称されるものの内、

国際的な拡がりをもつものに対しては、「戦争」に含まれるというのが一般的となりつつあります。
その典型が9.11テロとアフガニスタン攻撃です。

しかし、
私たちが訴えていた「テロ」という言葉には、
「戦争」という意味は薄く、むしろそのことを曖昧にして、国民世論の拒否反応から忌避しようとしていたのではないでしょうか。
そして、
米国の「テロ支援国指定」や「北朝鮮人権法制定」を受けて、
米国を中心とする西側諸国による国際的圧力により、展開を打開しようと企図していたはずです。
安倍政権発足当時、私はそのように信じておりました。
今思えば、誠に愚かしいことであり、誤った世論誘導に与した責任の一端は私にもあると猛省しております。
私たちは、何者にも臆することなく「拉致は戦争だ」と訴えるべきだったのです。

私たちが、禅問答がごとき意味不明な言葉遣いをしているうちに、あっさりと批准された「強制失踪条約」は、
このように大変重い意味をもっているということがお分かり頂けたでしょうか。
故に、筆を取らせて頂いた次第です。

11月 4

さる7月23日、

麻生政権は

国家による拉致の禁止などを定めた

「強制失踪(しっそう)からのすべての者の保護に関する国際条約」

(強制失踪条約)の批准書を

ニューヨークの国連本部に提出し、

締結手続きを終えた。

日本は12番目の締結国となった。

条約は拉致などを犯罪として処罰する内容で、

20か国の締結で発効する。

北朝鮮は締結していない。

この記事を目にしたときの「驚き」は、

私にとっては今年一番の出来事と言っても過言ではないほどのものでした。

今日は、

なぜ私がそれほどまでに驚愕したのかについて、

お話ししようと思います。

私たちは、

永らく「拉致はテロだ」と訴えて、

経済制裁に象徴される「国家意思の発動」を求めてきました。

この主張の論理について説明すると、

次の様に要約されます。

「我が国は、平成5年(1993)北朝鮮が核不拡散条約からの脱退と、

ノドンミサイル発射実験を相次いで強行したため、

翌年の国際原子力機関による北朝鮮制裁決議に基づき、

航空チャーター便の乗り入れ禁止などの

制裁処置を実施しました。

実際には被害の発生していない核とミサイルについては、

斯様に制裁を課しておきながら、

数多の被害者がいるにも関わらず、

拉致問題について、

何らの制裁を課す意思もないというのは如何なものか。」

我が国が「拉致はテロだ」という認識を、

内外に明らかにしたのは安倍政権になってからで

、平成14年(2002)9月17日の小泉首相の電撃訪朝と、

翌月に5人の被害者が羽田空港に降り立った、

あの劇的な場面を経てもなお、

政府は「拉致」を「テロ」だとは言いませんでした。

当時の福田官房長官が、

のらりくらりと「う~ん、ちょっと違うな」などと

はぐらかしていたのを、

鮮明に覚えています。

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