■取り合ってくれぬ日々■
金丸訪朝の結果、1991年から92年まで日朝国交交渉が7回にわたって
続けられました。私たちはそれに期待をかけ、91年1月に石岡さん家族とともに
上京して外務省に恵子たち3人を救出して欲しいとの「嘆願書」を提出しました。
しかし、外務省は恵子たちの問題を正式議題として一度も取り上げてくれませんでした。
せめて、安否だけでも知りたいという家族の切実な願いすら裏切られました。
それどころか、7回の交渉の中で、すでに1988年に国会で梶山答弁があった
蓮池さんら3組6人のアベックの件についても一度も言及しなかったのです。
ただ、1991年5月第3回日朝交渉でその直前に警察が身元を特定した「李恩恵」と
呼ばれていた田口八重子さんについてのみ、調査を依頼しました。それに対して
北朝鮮はでっちあげだと非難して直ちに退席してしまいます。それに恐れたのか、
外務省は第4回交渉から本会談の席で田口さんの問題を持ち出すことさえも
やめたのです。
私は、第3回交渉で田口さんの問題が取り上げられたとき、すぐ外務省に出向いて
「李恩恵の件だけでなく、平壌から手紙が来ている3人も含め、全員の解放を
要求すべきだ。なぜ、放っておくのか」と激しく抗議しましたが、
とりあってもらえませんでした。
この間、私たちが外務省に陳情に行っても、部屋にも入れてもらえず、
末端の担当事務官が玄関のソファーなどで話を聞くだけでした。このことからも
外務省は国民の命と安全をどう考えているのかがわかります。後日家族会が結成された後でも、
アジア局長が自民党の会合でたった十数人のことで日朝交渉が妨げられてはならないなどと
発言されました。許せない暴言ですが、こうした感覚が金丸外交後も外務省の中には
まかり通っていたんでしょう。
(つづく)
*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)




