どうしても言いたい!拉致隠蔽に群がった政・官・マスコミへの根本的不信④-2

■取り合ってくれぬ日々■

1993年5月、兵庫県警の捜査員が私の自宅を訪れ、1枚の写真を見せてくれました。

そこには恵子と見知らぬ中年の男性の2人がベンチで座って写っていました。

そのとき捜査員は次のように説明しました。

「このとき娘さんは朝鮮名のパスポートを使っていました。

男は北朝鮮工作員、キム・ユーチュル。これが(北朝鮮に送られた)確かな証拠です」

のちに、この写真は恵子が失踪した1983年7月、デンマークのコペンハーゲン空港で

西側の情報機関によって撮られたものだとわかります。

警察がこの写真をいつ入手したのかは、いまだ明らかにされていません。

しかし、私は手紙が届いた1988年9月の段階ですでに入手されていたと考えています。

なぜなら、1988年手紙が来た直後に長田署に連絡するとすぐ、行方不明になる前の写真の

提供を求められたからです。

恵子が失踪した直後の1983年に何回か地元の長田署に捜査をお願いしたときには

写真の提供は求められなかったのですから、あのとき警察がコペンハーゲンの写真を

入手しており確認作業をしようとしたのではないかと思うのです。恵子の事件は

たんなる海外での失踪事件ではなくなり、北朝鮮による拉致事件として警察が重点的に

情報収集をしていたのでしょう。

この推測が正しければ、政府は金丸訪朝の時に恵子たちが北朝鮮に拉致されたという

証拠を握っていたことになります。それなのに、事件を隠蔽したまま金丸外交は

進められたのです。手紙を持ち込んだ私たちに外務省が秘密にしておくように提案したのも、

拉致を知っていながらも隠蔽してしまおうという金丸外交の方針に従ったものだった

とも思えるのです。

(つづく)

*「正論」平成19年11月号より(加筆・修正のうえ転載)