■命がけだった「取材協力」■
1988年当時、マスコミは拉致問題を報じる姿勢がありませんでした。
先に書いたように同年3月に、梶山国家公安委員長が国会で蓮池さんら
3組6人のアベックらについて「北朝鮮による拉致」という言葉を使って
答弁したにもかかわらず、朝日、読売、毎日は一行も書かず、産経と日経が
ごく小さな記事を載せただけです。テレビ報道も大同小異だったようです。
ですから、拉致家族の私でさえ、梶山氏の答弁を知ったのは1994年のこと
だったのです。
私たちも先に書いたように、外務省の提案を受け入れて、マスコミへの
接触をひかえていました。
ところが、金丸訪朝の数ヶ月後の1990年12月、週間文春の記者が自宅を
訪れて、恵子たちの拉致について記事にしたいというのです。つづいて、
新聞やテレビ何社かの電話取材などもありました。話を聞くと、手紙のコピーを
含めてかなりの情報がすでに多くの社に漏れていることがわかりました。
取材を受けるかどうかで私たちは悩みました。恵子のことを明るみに出して、
救い出したい。しかし、外務省との約束もあり、事件が報道されると恵子たちの
身に危険が及ぶのではないか。家内は恵子の身の安全を案じて取材に協力することに
反対しました。私も悩みました。しかし、覚悟を決めて結論を出しました。
それは「日朝国交交渉がまとまれば過去を償う巨額の資金が北朝鮮に渡されるが、
政治家も外務省もこのままでは恵子たちの救出を取り上げようとしない。
これではカネだけ取られて拉致は棚上げにされてしまう。手紙が来ているという
事実を公開して訴えるしかない」と取材協力することにしたのでした。
1991年1月、毎日新聞と産経新聞などに大きく記事が出ました。また、週間文春は
何週間か連続して報じ続けました。ヨーロッパで失踪した3人の男女が北朝鮮で
暮らしているという手紙が実家に届いたという内容で、匿名扱いされました。
私たち家族は秘密を守っていたのに、なぜこのタイミングで情報が、マスコミに
漏れたのでしょうか。断定はできませんが、複数の記者らは外務省と警察から
情報を得てきたと話しました。拉致を隠蔽する金丸外交に危機感を持った
警察関係者の意図が働いていたのではないかと当時私は推測しました。




